禅の十牛図の第七図「忘牛存人」では、社会的な場で自己意識を完成させる様子が描かれる。
この場合、具体的な社会の場、この中で名前を持ち、社会的な成功をするということにこぎつけるには、主体というものが自分の身体の位置でしっかり固定されなくてはならない。自我意識は肉体と一体化していると言ってもいいかもしれない。

でも、これは小さな自己を獲得したことにほかならず、それに成功すると飽きてしまう。特定の時間、特定の空間の中で願望実現しても、あまりにも限定されているので、それは退屈なことだ。

そうやって第七図に飽きると、次の段階の第八図「人牛俱忘」に入る。横山紘一氏は、「ここで主体と客体の区別がつかなくなる」と言うが、これはけっこう大変な話だ。
自我が身体の外に出てしまうと、それまで身体のサイズをリファレンスにして成り立っていたものの大きさを、判定する根拠を失う。
空間と時間は密接に関係しており、空間の基準が崩れると同時に、時間の流れの秩序などが崩れてしまうし、そもそも主体は点でもいいし、地球のサイズ、いや太陽系のサイズになってもかまわない。つまり、ここでは小さなわたしというものが失われる。

かといって、大きな自己に到達するかというと、この第八図段階では流動的だ。社会や大地ということを基準にして成り立っていた自己は、第八図で解体するので、新しい自己を確立することに急がなくてはならず、そのために第九図「返本還源」では山のてっぺんに行き、天空(恒星、星雲界)から作られた自我を形成する段階に入るのだ。

この地上的な自我が、天上的な自我に移し替えられるためには、いかに地上的な自我を壊しつくすかということが重要で、第八図「人牛俱忘」のプロセスが徹底しているほどうまくいく。

で、面壁九年の達磨大師の場合、体内で陽神を作り、これが成長して固くなると、頭の上から外に出し、旅をさせる。
ここで自己分裂というのが生じて、第七図的な肉体的存在性は残しつつ、身体の外に出た新しい主体は広い世界を見聞きする。

十牛図のように一つひとつをしっかり進むと、第八図に行った段階で二度と元に戻れないが、達磨大師式だと“第七図、第八図を同時にしていく”というふうにもなってくる。
身体自我は残しているので、外に飛び出した陽神が見る世界は肉体を基準にして見る映像と似ており、ドクター・フー(イギリスBBCで放映されているSFドラマの主人公)がターディス(次元超越時空移動装置)でいろんな宇宙に旅する時のように、いろんな世界、宇宙がしっかり視覚的に固定されている。

夢の場合、入眠段階で自我は身体の外に出てしまう。わたしはエーテル体を生け花のように説明しているが、つまり、爆発するように自我が身体の外に拡大してしまい、肉体と一体化して主体を作っている人は、この段階で夢の体験の記憶喪失をする。
身体のサイズという基準を失うと、その後の夢の体験では、しばしば赴いた世界を映像的に認識できないことが起こる。夢は純粋に、第八図体験と考えていい。

で、肉体という特定の時間しか空間の中におらず、蝉のように短命な存在性から宇宙に飛び出した時、身体の基準があるからこそ成り立っていた宇宙の図、あの天文学的に描写された「星の地図」が一気に有効性を失う。
あの天体図は、主体と客体の関係が固定された時に見えてくるもので、肉体から出ると主体の位置がはっきりしなくなり、それにつれて客体も流動するので、空間的な座標は決められなくなるのだ。

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