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次元を超えて隣の地球へ
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松村潔著/ナチュラルスピリット
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最近ずっと瞑想について書いている。どんな瞑想も、サマタ瞑想とヴィパーサナ瞑想から派生したものだと考えられているが、このヴィパーサナ瞑想がアメリカナイズされたものがマインドフルネスだ。

そしてマインドフルネスから派生した瞑想法として、ジャーナリングがある。ジャーナリングについては解説書を一冊読んだだけなので、詳しく知らない。
というか、すべての瞑想法について、実は詳しく知らないのだが、ジャーナリングが、マインドフルネスから出たもので、マインドフルネスはヴィパーサナ瞑想から出たものだと考えると、ヴィパーサナ瞑想の基本としての、「ありのままを見る」ということと、「連想に流れない」という二点が、ジャーナリングにも生かされているのではないかと思う。

ジャーナリングは、もっぱら手書きで、自由な内容を書くらしい。できれば毎日時間を決めて、続けるのが良いとか書いてあるが、これがただの日記とか、メモとかでなく、マインドフルネスの瞑想法であるということになると、簡単なようでいて、けっこう難しいのではないか。

吉田典生氏の本では、現代は、スマホなどで繋がる社会になっていて、この繋がりっぱなしというのは、「いま、ここにわたしがいます」というマインドフルネスを自覚しにくくしているという。休みなく自己喪失しているのだ。
連想に流れるというのも、記憶の自動運転の流れの中に自己喪失することであり、一瞬、一瞬を意識的に生きると、この連想の流れは断ち切られ、目の前のありのままを見ることになるのだが、それをものを書くことで達成するということになると、これは真剣勝負だという気分になるに違いない。

世の中には物書きは多く、現代ではネット記事を書く人も多い。それに、ブログで毎日書く人も多い。
なので、ジャーナリングは、よく知ってると思う人が多いかもしれないし、実際アマゾンで評価記事を見ると、こんなこと自分はずっと前からやっているので、この本を読む価値はなかったという人もいた。

が、ものを書くことでプレゼンスを実現するというのは、ある種の物書きの極意のようで、これが達成されると、記憶や知識のため込みに依存しない、無尽蔵のライティングができる。
まるで何もないところから、ずっと湧き出すような状態となり、疲れることもなく、むしろますます元気になる。吐き出すたびにそれ以上のものがチャージされる実感だ。

ずっと昔の夢で、暗闇の中で、目の前のノートだけが光っており、わたしは文字を書くことで存在する、という内容のものがあった。
すると、「それはあまりにも危うくないか?」と声が聞こえた。
なにか書くときだけ、自分は存在する。というのは、書き続けないなら存在しないということで、もちろん安心感などひとつもないが、しかし、そもそも生命は不安定なものであり、意識的にここにいると意志する時だけ存在するというようなものなので、わたしの夢は特別な状況を指しているわけではなく、すべての人は多かれ少なかれ同じなのだ。

いま思うに、この夢は、ジャーナリングの本意に近い内容を示している。そして、書き続ける、主張し続けるというのは、マクロコスモスの恒星の中で、おおいぬ座のベータ星ミルザム(別名ムルジム)を指す。
これは犬の口を示しており、犬の頭はシリウスなので、シリウスが考えたことを、ムルジムは吠えているのだ。

ブレイディによると、ムルジムと水星がパランすると、アナウンサーになるなどと書いてある。水星はもちろん言葉の星だ。水星は惑星であり、これは地上活動と紐づけられている。
ムルジムが水星に乗っかると、地上的な水星活動に、ムルジムの創造力が降りてくるということなのだ。

ムルジムとジャーナリングを結び付けると、ジャーナリングの方向性は明確になる。
というのも、恒星とは、天空でひとり輝いており、ここには何物にも依存しないという要素が強いからだ。
恒星に対比される惑星は、太陽の周りを回り、太陽の創造の光に依存し、それに半分が暗い。
地上というのは、惑星の上にいることを示しており、恒星には、この地上というものが存在しない。

たとえば、ものを書くとき、何かのため、説明するため、お金を得るため、状況に刺激されて、あの人はこう言っているが、わたしは違うと思うという物言い(相撲用語)、あるいはひどい時には連想に従い垂れ流す(これをエッセイという?)など、具体的な動機付けがあるものは、みな地上的な書き物だ。

これはまったく恒星的でもなく、ムルジム的でもない。ムルジムの書き物は、書くために存在するというか、書くことそのものがプレゼンスということなのであり、実用性、その後の効用についてはまったく考えない。

惑星意識から独立して、恒星意識になるというか、恒星自我を持つことは、地上的制約から解き放たれて、単独で存在することだが、サンキヤ哲学を借りると、この恒星意識は、ブディ(覚)の意識でもある。
何かを借りて、とか比較・参照してということのない直接知覚なのだ。ムルジム・ジャーナリングは、ブディ的な、何に依ることもないジャーナリングになるが、結果的に、制約が取り払われていくので、奥から創造性が湧き出すようになるのだ。

わたしはここしばらく、自我とは何かというのを考え続けていた。シュタイナーは12サインを、12感覚に当てはめて、おひつじ座を自我感覚と説明している。

おひつじ座の0度、起点は、自我の発祥ということでもあり、たとえば、人間個人が生まれる時というのは、東の地平線と、黄道と交差したところを示し、文字通り、魂の黄道と、肉体の地平線が接して、これは受肉であり、アセンダントと呼ばれている。
個人として、この地球環境に12感覚の頭となるおひつじ座が潜り込んだことを示しており、いままでなかったところに、いきなり、存在が出現するのだ。
一度頭が環境の中に入ると、その後の12感覚は、蛇の胴体のように、するすると環境の中に続いて入ってくる。

いままでなかったところに、自分が入り込むというのは、環境としては、歓迎ムードでもなく、地上的根拠なく、自分をこの環境の中に押し込み続けなくてはならない。
一度生まれると、そのまま安心というわけでなく、ずっと追い出そうとする圧力は働いている。これを実感するのは、人が死ぬ時で、「ひり出す」ように、人はこの環境が自分を外に追い出そうとしていることを生々しく実感する。

つまり、これまで生きていたというのは、この追い出し圧力に抵抗して、休みなく、ここに居続けようとするふんばりが働いていて、それが毎回ずっと続いていたために、これをしていることを自覚しなくなっていたのだ。

でもよく考えてみると、人は弱気になると、すぐさまいじめを受けたり、周囲から「はぶき」を受けたりする。
おとなしくしていると迫害されるのだ。なにもなく、無風状態でここにいられるというのは、ありえない。受動的になると、すぐさまうつ病になる。

おひつじ座0度を、特定のコスモス、環境において、自我の発祥とみなすので、7つのコスモスにすべて均等に存在するのが良いということを述べているわたしからすると、この7つのコスモスすべてに、おひつじ座の0度を置く必要があるということでもある。

各々のコスモスに、わたしがいる、ということであり、これらはぴったり同じ位置におひつじ座が重なっていることはなく、7つのコスモスごとにまちまちなところに起点がある。つまり、それぞれのコスモスにおいて、存在意義、目的が違うということでもある。

ムルジムを、個人の自我の発祥、すなわちトリトコスモスへの「蛇の入り口」にすると、肉体を持つ個人としての地上的活動に、恒星的ジャーナリングの動機付けが関わる。
つまり、この人は、書くために生き、書くことで生きる。
でも、それによって生活しているかどうかはわからない。恒星は地上的な条件に振り回されないで、活動するからだ。地上的に損なことになっても、それもおかまいなし。

でも、ちょっと気になっていることがあり、個人としての肉体を持つ地上活動という時、この地上のプレートは均一なのかというと、どうもそうは見えない。
アーノルド・ミンデルは、合意的現実という言葉を使うが、地上に住んでいる人が、全員同じ合意的現実を持っているとは考えにくい。みな同じと思うことが、それこそ非現実な考えだ。
誰もが、自分の身近な範囲を現実とみなしており、それとは違うものの見方をする人たちは、視野に入っていないか、存在すらしていない。

地上の膜、プレートは、いくつかの層があり、このどこかの層に立っている人は、自分の立つ場所こそが、現実の場であると思っている。
母親が子どもを出産する時、この出産は、一度きりであるとは思えない。肉体として生まれる前の、日食の時、地球を取り巻く月の軌道のエリアに、大いなる母(つまり太陽)が、子どもを出産する。
そして人によって、数か月、ここにとどまり、それから、次元下降したところに、肉体を持って生まれる。その後も、子供が成長して、大人になった時、母親から離れて、社会に向かうが、この時も、母親は、出産したと感じると思う。
自分のオーラのエリアの外に、出産したのだ。

このように、いくつかの層を移行するものだと思うのだが、最近、この地上の層というのがどこなのか特定できず、複数の層を地上のプレートと考えてもいいのではないかと思う。
日食の子どもは、月の軌道を地面だとみなしているし、そのことに不満は感じないと思う。誰もが、自分が立っているところが現実なので、誰かを見て、あなたは現実に立ち向かっていない、木の枝につかまっていて、地面に降りてないというかもしれないが、それは自分を押しつけているに過ぎず、地面は複数の層なのだと考えよう。

となると、ムルジム的、すなわち地上的動機づけのない創造的姿勢においてのジャーナリングでも、自分が思うところ、自分が住んでいるところのプレートに、アウトプットする行為でもいいのではないかと思う。
現実をありのまま見るプレゼンスが、人が見ているものと違う地平にあってもいい。正直な話、自分にとって、これがリアルなのだと。

ムルジムをおひつじ座の0度にすると、黄経で、至近距離に、アルヘナがあり、これもおひつじ座に属するムルジムとの同グループだ。

アルヘナは、カストール、ポルックスという「物書き星」の兄弟のうち、不死のポルックスの踵をあらわしており、不死の息子は地上に踵をつけると、死すべき存在となるので、地上に接することに躊躇している。物書きとしては、カストールはたとえば社会派の内容を書き、ポルックスは童話とかファンタジー、神話などを書くと考えてもいい。
わたしとしては、勇気を持って地上に踵を降ろす必要はないと考える。というのも、この地上というのが唯一の現実ではないのだ。

ムルジムを自我の拠点、おひつじ座の0度に置くと、アルヘナは、2度弱のところにある。
サビアンシンボルでいうと、おひつじ座2度A comedian entertaining a group.[グループを楽しませているコメディアン]というもので、これは春のお花見をしているグループがあり、この中で、面白いことをいう人がいると考えてみよう。
あきらかに内輪受けだし、日本では、笑いというのは魔除けであり、体を快活にしてゆく。笑っている時に、人は身体を揺さぶって、厄落としをしているのだ。
アルヘナは世知辛い世間に踵を降ろさず、この内輪のグループの輪の中に、自分にふさわしい着地点を見つけ出す。

そもそも日本の桜は、春に山の上の先祖が里に下りてきた時、先祖が座る座布団とみなされる。なので、桜を「様+鞍」と考えたりもする。がちんと固い地面の上でなく、ふんわり柔らかい桜の絨毯の上に、アルヘナは踵を降ろし、ムルジム・ジャーナリングを達成する。

たとえば、同人誌、コミケなどを考えてもみたが、すでにコミケは小社会とは思えず、県ひとつくらいの大型社会なので、もっと内輪なものはないかと考えたが、最近は、オンラインサロンなども活発で、こうしたところはみな桜の園だ。
ここにプレゼンスの場があると見てもいい。世間から保護されているのが、ムルジム・アルヘナのマトリクスだ。

わたしは以前、ショートショートを書くことをお勧めしたが、理由は、連想の流れを使うと、ショートショートは書けないからだ。自然な連想の流れに切れ目を入れるのは、ショートショートの醍醐味だ。桜の園で、これをしてもいい。

肉体のおひつじ座0度としてのアセンダントに、このムルジムやアルヘナを重ねると、がちんと固い地面に、ムルジムやアルヘナが降りてくるが、アルヘナはきっと傷つく。
その層の少し上にある日食の、月の軌道の上を地面とみなして、そこに着地し、それ以下のところには降りないというのも、なんの問題もない。

そこにも多数の存在が集まった社会があり、それが見えてこないのは、その人が地球の地平線に降りているからだ。
ちなみに、多くの宇宙存在、宇宙人は、この日食の層には接してくるが、地球の地表には降りてこない。それこそ、踵が傷つき、死すべき存在となってしまうからだ。

 

 

松村潔
まつむらきよし/1953年生まれ。占星術、タロットカード、十牛図、エニアグラム、ライフシンボルなど、 いくつかの手法を活用して講座・研究会などを開催。アカシックリーディング等でも、タロットカードや占星術を併用すると安定性が高いという考えから、ツールの複合性を提案している。『わたしの運命がわかる地球星座占い』(角川書店)、『ディグリー占星術』『三次元占星術』(以上、説話社)、『土星占星術講座』(技術評論社)など著書多数。
http://www.tora.ne.jp/

 

 

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存在の4つのフェイズを縦横無尽に探究する
松村潔著/ナチュラルスピリット

『分身トゥルパをつくって次元を超える』
秘教の体系と神秘体験から見出した不死の身体とは
松村潔著/ナチュラルスピリット

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