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松村さんの好評本!

次元を超えて隣の地球へ
『人間は宇宙船だ』
松村潔著/ナチュラルスピリット
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チャクラを通るナディ(脈流)は、右にピンガラ、左にイダ、中央にスシュムナがあると言われている。
そしてクンダリニは、この中心のスシュムナ・ナディを上がる必要がある。もし右か左に脱線すると、異常事態となり、精神が壊れたり健康が悪化したりするらしい。
そもそもこれらを説明しているヨガ文献も、ちょっと怪しいところがあり、少し疑ってかかるほうがいいのではないかと、最近思うようになってきた。
わたしはカバラの生命の樹には慣れているので、チャクラと生命の樹を重ねて考えることが多い。
この場合、生命の樹は背中に背負っているような見方をするので、右の柱とは、図では左側にあるもので、左の柱は右側にある。
右の柱は、ピンガラ。左の柱はイダ、スシュムナは中央の柱に対応させてもいいと思う。ピンガラに対応する右の柱は、能動的な働きかけをする柱で、イダに対応する左の柱は、受動的というか受容的で、自分の意志で何かするということがほとんどない。
このふたつの柱を、交感神経、副交感神経と対応させる人もいるのではないか。
生命の樹として考えた時、クンダリニは中央の柱をまっすぐに上がらなくてはならないということだが、ヨガ文献を見ていると、どうみても、クンダリニは実感的には、左の柱、すなわちイダ・ナディを通っているように見える。
それは強い快感とか、エクスタシーを伴うというところがあり、これらを感じるのは生命の樹では、左にあるネツァクという中枢で、金星が割り当てられている。
金星とは受け取る、喜ぶ、楽しい、気持ちいいという天体で、自分から自発的には何もしない。
ヨシモトなど、お笑いのお客は、おそらくほとんどが若い女性だと思うが、これは金星象意の人たちで、きっと行きすぎなくらい笑ってくれるので、まだ新人のお笑いさんも、自分たちは案外実力があるんではないかと勘違いするのではないか。
クンダリニからすると、左の道も、右の道も邪道と解釈されやすいのだが、ドランヴァロ・メルキゼデクは、フラワー・オブ・ライフという図を紹介している。
ここには、複数の生命の樹が重ねられていて、左の柱は、その左隣にある生命の樹からすると、中央の柱であり、右の柱は、その右隣にある生命の樹からすると、中央の柱だ。
わたしは、縦に並ぶ四つの生命の樹については頻繁に言及してきたが、最近は、今度は横にならぶ生命の樹についても、考えてみようと思うようになった。
ここから考えると、ヨガ文献で、右の道も左の道も邪道であるという姿勢は、ひとつの生命の樹、あるいは7つチャクラの柱に、すなわち自分というひとつの生命体にこだわりすぎた考え方だ。
カスタネダの本に出てくるドンファンは、右の果てにはごみ置き場があり、左の果てにはごみ置き場があると言っている。
このごみという定義は、自分から見ると、価値のないもの、無駄なものを言うのではないか。ヨガ文献でいう、右の道、左の道は邪道という言い方と似ている。
とはいえ、ドンファンはごみ置き場と言う時も、それを否定的に見ているというよりは、ひとつの笑える題材として言っているように聞こえる。限界を超えると、おかしなものになると言っているのだ。
というのも、カスタネダが左の端を超えた時、宗教的な崇高な感情に打たれ、妄信する信者のようになったので、それを茶化していたのだ。
わたしは以前、生命の樹は、紙を丸めて筒にしたようなものではないかと説明していた時期がある。右に手を出すと、その手は、左から入ってくるのだ。
右の火星(ゲブラー)を突くと、左の金星(ネツァク)が反応する。これは、ひとりの人間を両性具有者とみなす考え方に等しい。
右の柱は男性で、左の柱は女性なのだが、この地上では、ひとりの人間は男女どちらかになり、もうひとつの性は、裏に隠れる。でも潜在的に持っているパーツは同じなのだ。
この生命の樹の紙の筒説をもっと拡大してみれば、フラワー・オブ・ライフにおいての複数の生命の樹をまとめた円筒と見ることになるが、もっと発展させて、フラワー・オブ・ライフを球体にしてみるのがいいと思った。
生命の樹は上にも下にも広がっているが、球体フラワー・オブ・ライフでは、上に行ったものは、裏返って、下から入ってくる。右に押したものは、左側から入ってくる。
たくさんの生命の樹があると、混乱しやすい。というのも、生命の樹ひとつが、ひとりの生命体であり、この生命体の単位とは、上の無、下の無(無限)で閉じられているものだ。
この場合、無というのは、知覚の限界であり、その先は見えない、知覚できないということだ。
では、右と左の壁はどういうものかというと、ドンファンの話で書いたように、ごみのように無価値な、なんの意義も感じられないというものだ。よくアメリカのドラマなどで、誰かに対して「糞だっ」という言い方があるが、排泄したものを顧みたくないという意味なので、すでに廃棄した、無価値に感じるものに対して言う言葉であり、右も左も糞なのだ。
上の無、下の無、左右の糞に囲まれて、ひとりの生命体の単位というか輪郭が決まっている。自分以外のものをごみとみなしているので、排他精神に満ちていると言える。たいてい本人は、そのことを自覚していないものなのだが。
球体のフラワー・オブ・ライフでは、このごみというものがない。
というのも、ごみをごみと定義しているのは、単一の生命の価値観、信念体系、エゴであり、たくさんの生命が、パズルのように重なっている状況では、自分がごみと思ったものは、となりの人には価値があり、そう思うには、自分がその場所に行ってみると実感できる。
つまり球体のフラワー・オブ・ライフは、ごみを出すことのないSDGsなのだ。誰かに石を投げると、まわりまわって、自分の頭に当たる。
ずっと昔、40年前あたりに、スピカに体外離脱したことがある。
この時、スピカは花だらけの天体だと思った。どこにも平地がなく、尖った花びらの並ぶ、でこぼこの場所なのだ。スピカは球体時間だと言われている。また、スピカ人はとてもバランスの取れた生命体であると言われている。
球体フラワー・オブ・ライフに似ているではないか。そもそもフラワーという名前もついているのだし。それに、バランスのとれた生命体というのは、上の無、下の無(無限)、左右の壁を適切に作り、球体のどこの場所でも、整った生命体の形を切り出すことに関係する。
わたしがスピカに行った時、どこからか、スピカ存在と言えるエンティティがやってきて、それがスピカ天体のどこから来たのか、わからなかった。
が、スピカを球体フラワー・オブ・ライフと見ると、どこからでも、生命存在を切り出すことができるのだ。その存在は、自分も地球に連れて行けと言ったので、帰りは重さゼロのグライダー(マカバ、あるいはアメノトリフネ)に、タンデムで戻った。
わたしは東京に戻ったが、スピカ存在は、様子を見ていると、ネバダに降りた。なぜネバダなのか、いまだにわたしの頭の中では、演算が続いている。
ひとつの生命の樹の左をオープンにすると、外部存在が入り込んできて、自分の左半身に重なってくる。
体験的に言うと、わたしには休みなく、何かが入ってきているが、放置しておくと、やがて入ってきたそれは、右から出ていく。球体フラワー・オブ・ライフにおいて、全体的に見て、これは血流のようなものではないか。
グルジェフは、自己想起というメソッドを重視していた。わたしは腕時計を見ている。腕時計を見ているわたしを、違う地点から見ているわたしがいる。さらにそれを見ているわたしがいるというふうに、観察点を増やすのだが、このメソッドは特定の信念体系に自己同一化して眠り込む人間を目覚めさせるためのものだ。
思い込みというのは、ちょっと違う視点から見る余裕があると、一気に覚めてしまうものなのだ。
球体フラワー・オブ・ライフは、この複数のわたしが、パズルのようにちりばめられている。
ほかの生命の樹を他人とみなすのでなく、球体としての大きな自己があり、この中に、自己分割した「小さな自己」、あるいは「分割魂」があるとみなすのだ。そしてそれは、隙間なく敷き詰められている。
さて、このように考えた時、問題となるのは、クンダリニの処遇だ。
ムラダーラチャクラの中で、三回転半とぐろを巻いた蛇が眠っているという。この眠ったシャクティを目覚めさせ、上昇させていくのが、クンダリニ覚醒だ。
だいたいクンダリニの根っこは、骨盤底筋の上あたりにあり、タロットカードでは、「20審判」のカードで、下のほうに四角の棺桶のようなものが描かれている。この中から青い人が立ち上がっているが、これはガブリエルの呼び出しで目覚めたのだ。
インド式に言うと、このガブリエルは、シヴァだ。
ひとりの身体では、起点が腰にあるので、わかりやすいが、これが上昇するとき、左の人の中央の柱を駆け上がったり、右の人の中央の柱を駆け上がったりもする。さらに、生命の樹は上下にも重なっている。
わたしは四つの生命の樹を重ねて考えることをしてきたが、この時、上の生命の樹の足が、下の生命の樹の頭に乗っているわけではない。スタガー接続というのか、下の生命の樹の胸の位置に、上の生命の樹の足があり、この上の生命の樹の胸に、さらに上の生命の樹の足が乗っている。
グルジェフの体系では、物質体のすぐ上にアストラル体があり、シュタイナーの言うエーテル体というのがちっとも登場しないが、このスタガー接続の生命の樹では、物質体の生命の樹の頭に、アストラル体の生命の樹の足が乗っており、エーテル体の生命の樹は、アストラル体の胸と、物質体の胸の間に挟まれた場所にあり、エーテル体は、アストラル体と物質体のつなぎ材として、見えないところにあると考えてもいいのだ。
確かにエーテル体は、物質体やアストラル体のように、単体のまとまった形を持たず、わたしはいつもこれを蛇にたとえている。龍でもいいが。
球体フラワー・オブ・ライフでは、右と左もこのように重なっている。
なので、上にも下にも、右にも左にも、相互干渉があり、単独の生命体は存在しないと考えてもいい。
クンダリニの根っこは、個人の立ち位置を決めるのに役立つが、球体フラワー・オブ・ライフでは、いろんな場所に、クンダリニの起点があり、各々が微妙に違う燃え方をする。
山手国弘氏は、クンダリニが覚醒してから、毎日、朝になるとパンツが焦げていたという話をしていたが、クンダリニの覚醒においての感情状態を鑑みて、燃えるというのには、「萌える」というのも多量に含まれていると思われる。
なんとも言えない幸福状態を伴う。そして球体フラワー・オブ・ライフでは、この燃え方、萌え方の多様な種類がある。
数日前に夢を見たが、わたしは病室にいて、そこによその病室にいる大きな黒人が入ってきた。わたしのクンダリニの話に興味があるのだと言う。しかし具合が悪くなって、床に倒れた。
そのうち、この黒人ごと、わたしの病室が燃えた。特に天井に穴が開いて、まばゆいばかりの白い光に満たされていた。黒人は、カーリーのことだと思う。
これはシャクティの別名で、カーリーは世界の終りのために用意されている。カーリーが燃えると、世界は終わりになるのだ。
しかし、球体フラワー・オブ・ライフでは、部屋が複数あり、ひとつが燃えると、そのまま上の部屋に繋がったりする。それに、違う病室にいた黒人が、わたしの病室に話を聞きに来たということ自体、よその生命の樹のカーリーが、やってきたのだ。
ここで病室というのは、人体を改造する、修理するというようなことなので、存在状態の変更を前提としている。
ヨガ文献のクンダリニの説明は、単一の存在においての扱い方に特化しており(しかも男性のみに適用されている)、背後に差別意識が見える。違うやりかたをする人間はサタンだと言わんばかりで、最近話題の宗教団体のような考え方だ。
わたしの金星はスピカに深く関わっているので、この球体フラワー・オブ・ライフのクンダリニについて展開すると、そうとうに未来的になるので、いろいろ深堀りしてみようかなと思っている。
松村潔
まつむらきよし/1953年生まれ。占星術、タロットカード、十牛図、エニアグラム、ライフシンボルなど、 いくつかの手法を活用して講座・研究会などを開催。アカシックリーディング等でも、タロットカードや占星術を併用すると安定性が高いという考えから、ツールの複合性を提案している。『わたしの運命がわかる地球星座占い』(角川書店)、『ディグリー占星術』『三次元占星術』(以上、説話社)、『土星占星術講座』(技術評論社)など著書多数。
http://www.tora.ne.jp/
『夢を使って宇宙に飛び出そう』
存在の4つのフェイズを縦横無尽に探究する
松村潔著/ナチュラルスピリット
『分身トゥルパをつくって次元を超える』
秘教の体系と神秘体験から見出した不死の身体とは
松村潔著/ナチュラルスピリット

