最近わたしがよく出す話題は、「全惑星意識」というものだ。惑星の上に住む地球人の知性の平均水準は「惑星意識」というもので、グルジエフの定義では法則48。
そこからひとつ上の次元に進化したものを全惑星意識と呼び、法則24が割り当てられている。全惑星意識は惑星の上では不死であり、いかなることによっても損なわれることはない。また全惑星意識の上には、「太陽意識12」があり、太陽意識は全惑星意識の上では不死である、ということになる。
意識は対象がないことには自分を自覚しないし、活動もできない。そこで自己分割して、自分の内部に対象あるいは客体を作り出すが、惑星意識48は対象として自分よりも下の振動の月、あるいは火96、空気192、水384、土768などを自己確認のための対象にする。
しかしほとんどのケースではこの対象を自分と混同する傾向があるので、「惑星意識48」は物質しか認識しない存在となる。この世には物質しか存在しないし、人間も水をためこんだ土の袋であり、精神とか感情とか見えないものは存在しないと考える傾向にある。
全惑星意識は言葉どおり、太陽系の惑星のすべてを集めて統合化したものだ。これは法則として一なるものは7つにわかれ、このうちのひとつはまた7つにわかれるという連鎖から考えて、だいたい惑星は7つくらいではないかと想定する。
一なるもの、すなわち太陽が、太陽系の内部に自分を7分割したのだと考え、これらを全部まとめると、太陽に近づけるのではないかとみなすわけだ。
で、しばらくの間、わたしは太陽系モデルは、原子に模写されていると主張していた。これは旧型のラザフォードモデルではそのとおり。
そもそも原子というミクロの世界はマクロの世界を小型にコピーしたもので、ミクロの世界そのもので、独自に発展する要素はない。ならば原子は太陽系の模造だと考えてもいいわけだが、量子論の発展以後、長岡半太郎やラザフォードが言うような固定的な原子のモデルは考えにくくなり、電子は輪郭のはっきりしないあいまいな雲のように描かれるようになった。
これで、原子は太陽系の小型コピーではないということができるかというと、逆に今の太陽系のイメージを、量子論的原子に寄せていくほうが正しいのではないか、すなわちやはり原子は太陽系のコピーであると考えるのが、最近のわたしの主張だ。