生命は7つの層でできており、感覚は12の区画でできているというのが基本法則だとして、この12の感覚は、占星術で使う12サインとも共通しているということは前にも書いたことがあると思うが、記憶がはっきりしない。

で、ひとつの世界に住む、たとえばこの地球に住むというのは、12の感覚が総動員してこの地球という振動帯にあわせていることを意味する。
生命が7つの層を持つというのは音階のように振動の違うものが7つ並んでおり、物質界というのは一番下の7番目のものを示すので、ここに12感覚が結びつくと、この地球世界をリアルに感じ取れるようになるが、ひとつずらして、上から6番目のところに12感覚を揃えると、そこがリアルな世界になり、一番下の7番目の世界はもう認識できない。

そして、この上から6番目にしっかり同調すると、そこを硬い物質世界とみなすようになる。7つの音の底部が物質とみなされ、これは存在によって同じ振動ではない。つまり、いろんな存在に共通して物質とみなされるものはないということでもある。
で、こことは違う世界に行くには、この12感覚を目的の世界に全部同調させると良いわけで、中途半端に今までの世界に感覚のいくつかを残し、残りを目的の世界にシフトさせると、文字どおりの統合失調になり、安定した生活はできないことになる。

12感覚は12サインととても似ていると考えたとき、占星術の12サインは、互いの角度というものが、異なるサインとの関係性を考えるときに参考になるように、異なる感覚との関係を考えるためにもずいぶんと役立つ。
世界の中に入る入り口は春分点で、ここから牡羊座の自我感覚が始まる。ともかくこの世界に入り込むには、自分をそこに押し込む必要があり、牡羊座の自我感覚とは、自己を主張すること、意味があってもなくてもいいから、ともかく存在させるために自分を言い張ることだ。

そうしないと、また世界の外にはじき出されてしまう。牡羊座は30度あり、サビアンシンボルなどは30個あり、バラエティがあるが、これらのすべてが自分を世界の中に押し込むために暗闘し、失敗したり成功したりと紆余曲折していることを描いている。
世界のどん底とは、春分点の反対の秋分点だが、世界の中に入り込むという前半の6サインの最後のおとめ座は、もっとも重たい感覚としての「視覚」を示している。なんといっても、感覚の中で視覚ほど影響の強いものはない。

意識は射出しないことにはうまく働かない。ただある、という状態だと無限小に縮小し、最後には無になってしまうので、休みなく対象に働きかける必要がある。
この時、射出するというイメージは何か外部に対して飛び出すように見えるが、わたしたちはみな非局在的な存在性がルーツだと考えると、外部的なものは存在しない。
だから射出するには自分を分割して、「射出する側」「射出された対象」というふうに内部分割していることになる。これは中国の「陰陽魚」みたいな図と似ていて、白い部分と黒い部分に二極化するのだ。

この二極化を陰陽、主体と客体、本質と質量といろんな言い方をしてもいいが、自己と世界という言い方をしてもいい。で、視覚を考えた時、わたしたちは何かを見ている時に、それを対象として見ているわけで、つまりは原初の二極化において、この対象はわたしではない、相手の側だと考えていることになる。
つまり、わたしたちは何かを見ている時、その対象を自分から追放しているということにもなる。

おとめ座の性質として目立つものとは、排他機能であり、また細部にどんどん入り込んで、全体性を失うということだ。木を見て森を見ない。
物質とは対象化されたものを意味すると考えると、自己の内部分割がどんどん進むことで、固い物質も作られるし、見たものすべてを自分から追い出しているということで、視覚とはおとめ座の性質にきわめて似ているということだ。

見ることで自分が分割され、見ている限りは自分はもとの一なるものには戻れないということで、世界のどん底におとめ座の視覚がある。
もちろん、秋分点から今度は反対向きの、世界から抜け出そうというコースの始まりには、てんびん座の「触角」があり、これはものの形から解放していくために使うことができる。

で、占星術の12サインの関係を考える時に「互いの角度などを参考にする」と書いたが、おとめ座の視覚の反対にあるものはうお座の「味覚」で、これは180度の関係だ。おとめ座は見ることで排除すると考えると、うお座はまさに正反対だ。
まず、うお座になると、もう12サインの最後で、すぐ次に春分点があるので、外宇宙に飛び出す手前のサイン。世界は二極化、さらに細分化された分割によって作られていると考えると、外に飛び出すには、この分割をもとに戻す必要がある。いわゆるノンデュアリティと考えてもいい。

目の前に卵焼きがある。この時、視覚で卵焼きを見ている間、卵焼きとわたしは客体と主体の関係で、分裂している。
しかし卵焼きを箸でつまんで、口の中に入れた時、なんと視覚として見ていた卵焼きは消えた。そして卵焼きが舌の上に乗った時、卵焼きを味わうのは、排他的に見ているのでなく、卵焼きを自分の内側に迎え入れるために、点検して、仲間にしてもいいかどうかを考えているのだ。

これは毒物ではない、安全であると判断したら、卵焼きは体内に入っていく。そして、卵焼きは主体の働きに内側から仲間として貢献する。
うお座の味覚とは、一体化であると考えると、おとめ座の分裂と排他という視覚の作用と、うお座の味覚の作用はまったく正反対のものであると考えることができる。

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