10月22日に行われた、パラマハンサ・ヴィシュワナンダの来日イベント「トーク・イベント&サットサング」。パラマハンサ・ヴィシュワナンダは、愛と献身の道を説く「バクティ・マルガ」の創始者であり、モーリシャス島出身の霊的なマスターです。
そんな彼と2人のゲストを招いてのトークイベントの模様を、前回前々回に引き続き、最終回としてお届しましょう。
※サットサングとは「真我との交わり」を意味し、そのイベントの第一部にあたるのが、このトークイベントです。

Talk Members-------------------------------------------------------------------------------

パラマハンサ・ヴィシュワナンダ
モーリシャス島出身の霊的なマスターであり、献身の道を説く「バクティ・マルガ」の創始者。自らの人生と仕事は全て、人々が文化、宗教、性別、年齢の境界を超え、ハートを開いて全てに浸透する神の永遠の愛に気づき、それを受け入れることに捧げている。人々に限りないインスピレーションを与え、日々の生活の中で愛を経験する能力を目覚めさせる知恵と技法を提供している。

http://bhaktimarga.jp/
https://www.bhaktimarga.org/(English)

青山圭秀
あおやままさひで/1959年、広島県生まれ。理学博士、医学博士。『理性のゆらぎ』『神々の科学』(いずれも三五館)他、著書多数。量子物理学を専門としながら、西洋科学と東洋生命科学の融合を模索。長年研究してきた現代科学、ヴェーダ哲学に基づき、2004年より、千数百人に瞑想を指導。
http://www.art-sci.jp

 

藤田一照
ふじたいっしょう/1954年、愛媛県生まれ。29歳で得度。その後渡米し、長年アメリカで禅の研究と指導にあたる。曹洞宗国際センター前所長。『現代坐禅講義』(佼成出版社)、『禅の教室』(中央公論新社 )他、著書、共著、訳書多数。現在は、日本における禅の普及活動を行う。
http://fujitaissho.info

 

司会(鶴飼哲也)
つるかいてつや/「真の教育のための学校NOW」の共同代表として、講師やトレーナー、コンサルタント活動を行う。
https://nowprojectnow.org

 

祈りの力で大いなる何かと通じ合う

──ここで、「祈り」についてお二人にお聞きしたいと思います。あらゆる宗教や精神的アプローチの中で、最も重視されているものとして、礼拝や祈りがあると思います。ご自身で実践されている、あるいはお2人が伝えている根源的な深い祈りがあれば、分かち合っていただきたいと思います。

青山
祈りについて、聖書の中でイエスがこんなことを言っています。「もし、あなたがたに本当の信仰があって祈り求めるなら、その山に、動いて海に入れと言えば、山はその通りになるだろう」。
そこで、私は生徒さんに聞くんです。「本当の信仰を持って真に祈れば、山は海に入ると思いますか?」。
私は、イエスのおっしゃったことはその通りだと思います。ただ、「真の信仰があれば」という部分が、難しい部分です。私たちには、真の信仰がまだないと思うんです。
先ほどスワミが「本当にそう願うのであれば」とおっしゃいました。神を信じたうえで、賛美や感謝、願いなど様々に祈るでしょうが、それでもなお、私たちは自分の意識のレベルでしか祈れないんです。

マザーテレサの修道院に入った、私の生徒さんがいます。彼女は修道院に入るにあたって、大切な信念を捨てたんです。輪廻転生やカルマの法則は、カトリックでは異端とされますから、それを捨ててでも貧しい人たちのために働きたいと願い、今ではそこに身を置いて10年以上になります。
修道生活においては、苦しいことがいっぱいあるはずです。暑がりの彼女は、フィリピンに赴任しました。暑い夜、蚊帳をつって、修道院の規則で決められた服を着て寝ないといけません。「空気も動かない暑い夜、修道女のため息が一晩中、聞こえる」と言います。
日本に帰ってきた時、彼女に何が一番辛いかと聞いたら、「イエス様と十分に心が通じ合ってないことです」と言いました。夜、暑くて眠れないとか、食べ物が粗末だとか、仕事が苛酷だとかいうことよりも。

私たちは、もしイエスのことをわかろうとするなら、彼と同じ意識レベルに到達しないと本当にはわからないんだと思います。本当に奇跡を起こしたかったら、真の信仰が必要なんだと。
かつてパウロが言いました。「もし、私がイエスのことを信じていれば、こんなことはしないだろうということを、私は今でもする」と、彼は聖書の中で告白しているんです。キリスト教神学の基礎を築いた偉大なパウロでさえ、そう言っているんですね。

私たちは、その時、その時の自分の意識のレベルでしか祈ることができません。それでも祈り続けて、意識を拡大し、意識を深めていって、少しづつでも神に近づいていく──。
そうすることで、その途上で、神様の方から近づいてきて、何かをしてくださる時がくるんだと私は思います。生徒さんの中にも、そういうことを経験する人がたくさんいます。

藤田
祈りというと、こちらから何かに向かって祈るのが、僕らが普通考える祈りだと思います。
そうすると、今、青山さんも言われたように、人は本当は、エゴイスティックな祈りしかできない。何かそこに、反転のようなものが起きて、実はそういう私のことを逆に祈ってくれている何者か、あるいは何かがある──、というふうに“祈りの関係が反転する瞬間”が訪れてくるんじゃないかと思います。

私は祈られていた、私が祈ろうとする前にすでに私は祈られていた。そういうのが、スワミのいう愛じゃないかと思いますね。“愛されている自分に気がつく”ということですね。問題は、それを受け止められないというか、祈られているという優しさみたいなものを、人はどこかで拒絶しているというか。それは、いろんな事情があってのことだは思いますけど。
なので、祈ろうとするよりも、「祈られていることを見えなくしている自分を、クリアにする必要があるんじゃないか」と思うわけです。

僕の場合、それが坐禅なのかなと思っています。坐禅は祈っているようには見えないかもしれないけど、未知のものに向かって、自分を完全に開こうとしている努力の姿だと思います。
先ほど、僕は「生かされている」というお話をしましたが、それは「祈られている」とも言い換えられて、祈られて生きている自分そのものを味わっていく営みではないかと。
祈りについては、そういうふうに考えています。