悟りをテーマに活動している、ドルフィニスト篤です。
今回も、私の師匠であるマスター・ゲート氏の教えを交えながら、日常の中で目覚めていくためのポイントを、悟りの観点から綴っていきます。
肉体を自分自身だと錯覚すると罪悪感がつきまとう
私たちは、キリスト教における原罪のように、何も悪いことはしていないのになぜか、“自分が悪いのではないか”という感覚に囚われることがあります。
両親や先生に、「おまえは悪いやつだ」と貶されて、そのように扱われたことがトラウマになっているという方もいらっしゃると思います。
そういった方なら、罪悪感を持つ理由もわかりやすいのですが、そのような経験がなくても、誰もが漠然と罪悪感を抱えていて、ぬぐえないものです。
誰かに言われたわけでもないのに、何かをしていないといけないような強迫観念や焦りがいつもあって、後ろめたさのような罪悪感が心に染みついているのです。
そして、何かのきっかけがあるたびに、しつこくその考えが湧き上がってきて、私たちを苦しめます。
そのことを、自覚していない方もいることでしょう。でも、肉体を持った人間として存在している以上、どうしても罪悪感が付いて回るものなのです。
なぜ、そのようなことが起こってしまうのかというと、肉体を自分自身だと錯覚してしまうことから始まります。
外側の世界と比較するほど、惨めになるという罠
人間としての肉体を持っていると、飛びたいと思っても飛べないように、やりたいことをやるにも限界があります。
そして、どうしても他者との比較が生まれて、自分の限界を感じ、無価値感や無力感に囚われてしまうのです。
すると、存在していることに自信や誇りを持てずに、存在すること自体が「申し訳ない」「悪い」という発想が生まれ、それが、何もしていなくても瞬間瞬間に魂に刻まれていくわけです。
この物質界では、物質に光が当たれば、影ができます。
同じように、心の中にも光と影が生まれます。
外側の世界を華々しく、光のように思えば思うほど、相対的に自分自身が惨めになって、影のように感じてしまうものなのです。
これは、特に、自分と他人のSNSを比較するときなどに、知らず知らずのうちに陥る罠でもあります。
しかし、自分自身というものは本当は肉体ではないにも関わらず、その錯覚が、ここまでのドラマを生んでしまうわけです。
自らに課した罪人意識を捨て去る
マスター・ゲート氏は次のようにおっしゃいます。
腕の良い弁護士は被疑者のために、一生懸命に状況を提示して、あらゆる根拠をかき集めて、被疑者の無罪を立証します。
ところが、被疑者は、そんな弁護士の努力を見て、自分はもとから罪がなかったと思うようになります。
無罪判決が下ると、自分にはもともと罪がなかったから当然無罪になったのだと確信して、弁護士費用を払いたがらないという話を聞いたことがあります。自分に対する悟りも同じです。
私は、皆さんがもとから無罪だったことを証明する弁護士のようなものです。
しかし、立証した後は、「そうだ。私はもとから無罪だったのだ」と言って、皆さんはありがたくも思いません。
無罪判決を得たことの価値がわからないうえに、自由を満喫することもできません。皆さんは罪人ではなく、無罪の人です。
これは、何をしても許される人という意味ではなく、「自分は罪の意識を持った衆生である」という考えから、無罪判決を受けたことを意味します。しかし、無罪判決が下るまでは、いつも嫌疑(悪いことをしたのではないかという疑い)がありました。
その嫌疑は、他の誰かがかけたのではなく、自らが自分自身にかけたのです。
わかってみたら、もとから罪などありませんでした。
私はただ、無罪を立証してあげただけです。罪人意識が染みついているために、ありのままでは足りずに、それを補わなければいけないと考えてしまい、「悟りのためには、独特で神秘に満ちた何かがないとだめだ」と思い、「何らかの修行をしないといけない」と思う人がほとんどですが、とんでもありません。
自分自身からかけ離れた神秘や修練や悟りというものは、存在しません。
すべての主体はまさに、自分自身の心です。皆さんはまだ、自分自身を治めるのに慣れていないので、いつも不安で、自分を弱くて矮小な存在だと思っています。
誰がそうしたのでしょう?自分自身がそんなふうにしました。
ある人は、「私はみっともない人間です」と思っていますが、そう設定するのも、やはり自分自身なのです。
私たちは、この罪悪感を埋め合わせるために、常識的で正しくあることで、悪くないことを証明して主張しようとします。
何もせずに存在することは罪悪であると思い、人目を気にして、その埋め合わせの行為のために日々、忙殺されます。
それには常に、苦しみが伴います。
「罪がある」という考えも、「罪がない」という考えも作れる私なのに、「罪がある」という考えの中に陥ってしまっているのが私たちなのです。
「罪がある」という考えのもと、罪悪感が絶対的な必然性のように錯覚していますが、これも単なる「考え」に過ぎません。
しかし、根本的な原因を見ることがないので、疑問を持つことなく、「罪がある」という考えの中で、延々とその行為を繰り返すことになります。
罪悪感から自分ヘと主権を取り戻す努力を
この苦しみから抜け出すには、どうすればいいのでしょうか?
「肉体を自分自身だと錯覚しているから、罪悪感が生じている」という答えを聞いたところで、自分自身に当てはめて考え、「本当にそうだ」と確信を持たない限りは、苦しみから抜け出すことはないでしょう。
「私は何も悪くないんだ」と答えを自分に言い聞かせるのではなくて、なぜ罪悪感に苛まされてしまうのかを、自分の意志でまっすぐに見て、よく考えて、分析して、洞察しなければなりません。
そして、罪悪感に主権を奪われたままにするのではなく、常に主権を取り戻そうと努力し続けなければいけません。
もちろん、努力しようとしても、無意識のうちに罪悪感に支配されてしまい、うまくいかないことが続いて諦めたくなることもあるでしょう。
それでも、やり続けようとする意志を持つのです。
そうすれば、“足りないものはなかった”“光と影は錯覚だった”“罪悪感は幻想に過ぎなかった”ことがはっきりとわかってくるでしょう。それにより、苦しみから解放され、本当の自由を得ることができます。
「その答え」の価値がわかるようになって初めて、敬意の気持ちや感謝の心が生まれるのです。
ドルフィニスト篤
ドルフィニストアカデミー主宰。京都大学理学部物理学科卒業。京都大学院理学研究科物理学専攻、修士課程修了。2001年より、イルカのスピリットをチャネリングする綾子夫人と共に、イルカのように生きる「ドルフィニスト」を提唱し、全国にて講演活動を行い、人々の目覚めやヒーリングに従事する。現在は悟りのコミュニティにおいて、鋭い論理と慧眼で悟りへと導いている。著書『悟りハンドブックー〈私〉を思い出すこと、それが悟りです!』(ナチュラルスピリット)。
ドルフィニストアカデミー
http://www.dolphinist.jp/
http://iru-iru.jp/
『悟りハンドブック』
ドルフィニスト篤著/ナチュラルスピリット
+++++++++++++++
悟りのマスター、マスター・ゲート氏の活動情報はこちら
101キャンドルライト
http://101candle.jp/
『悟りの錬金術』
マスター・ゲート著/アン・テファン訳/ナチュラルスピリット