この連載がきっかけとなって生まれた気づきの短編集『プルートに抱かれて』を、昨年発売したヘルメス・J・シャンブさん。
この2月に、意識探求をテーマにした新刊が発売されたばかり!
今回から、ヘルメスさんによる“この連載で発表した「気づきの小説」の解説編”をお届けしましょう。
※2冊目の著書『道化師の石(ラピス)』も小説仕立てで、独自の世界観を伝えています。

 

苦悩と恐怖を一切終焉させるのための書!
『知るべき知識の全て I 』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

 

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気づきの小説「運命というものは」の解説

今回は、Vol.13『運命というものは』の解説となります。非常に重要な作品です。

運命というものは、あるいは人生というものは、自分で選択しているようで、それは宅配の荷物が届くように、いつも自然と、どこからともなく現れる出来事の連続なのです。

ひとつ、先に伝えておきたいのは、私たちはいつも、その時に求めているものとは別の贈り物を受け取っている、ということです。

簡単な例えを言えば、私が買い物をしようとして出かけた時に、そのお店の駐車場で突然、事故に遭うようなものです。
それは、私が想像もしていなかった出来事ですし、望んでもいないことです。けれども、それは否応なしに目の前に現れて、「さあ、どうする?」と言ってくるのです。
あるいはその出来事が、表面上自分にとって好ましい事象でも、全く同じことなのです。

ちょうどこの短編をオンラインに掲載した後に、東京で友人となった方から連絡がありました。
「ようやく、あなたの言っていることが分かりました」と。
彼女は、ご主人が突然倒れて、生活が一変した、ということを私に伝えてくれました。そこで私はまず、『運命というものは』を読んでみてください、と伝えたのでした。

黙っていても、良い出来事がやってきます。そして、黙っていても、悪い出来事が起こるのです。
私たちの心は、いつもその場に遭遇すると取捨選択をして、これは嫌、これは好き、またはうれしいなどと言って、つまりは「現れた出来事」を判断しようとしますが、実のところ判断や取捨選択とは、ただ「現れた出来事あるいは状況の奴隷」となっているだけに過ぎません。

つまり、「出来事に影響され続けていて、何ら主導権を握っていない」ということです。
ここで言う主導権とは、「現れた“結果である出来事”を思い通りにコントロールする」ということを意味してはおりません。
結果を変えようとすることは、結果の奴隷になり、奴隷のように従う、ということを意味しているのです。

ところが、表面上、心はそのようには感じないでしょう。
「私は状況を変えることができる」と思うはずです。「自分の思い通りに変更しなければならない」と。
そして実際に操作して、それで「問題は解決された」と勘違いをしてしまうのです。

困難な状況とは、いつでも想定外の展開に感じられるし、あるいは、あり得ないほど理不尽で、「こんなことが本当に起こる?」と疑いや驚きを隠せないものでしょう。
例外なく誰にでも、納得ができず、非常に理不尽で、それなのにひどく批判され、時に罵声を浴びせられ、全てを失ってしまうかのような残酷な出来事が起こります。
けれども、宅配人がベルを鳴らすまでは、そんな出来事など全く想像もしていないのです。

本当に無実で、本当に何一つ悪いことはしていないのに、突然、罪に問われることがあります。
あるいは、ただうっかりとしただけで、意図的にルールを破ったわけではないのに、「君はルールを破りました」と言われて、権利を剥奪されることもあるでしょう。

罪がない人が、一方的に裁かれることほど残酷な出来事があるでしょうか? けれども、おそらくそんなこととは露知らず、その人は世間に誤解されたまま、もっと批判や攻撃をされることになるかもしれません。

そうであってもそんな時でさえ、私たちは、自分が求めてもいなかった贈り物を受け取ることになるでしょう。
つまり、その残酷で最悪な状況の中で、彼あるいは彼女は、想像もしていなかった宝物を見つけることになるのです。

それは、例えて言うなら、何か失敗をして、きっとひどく怒られるだろうと思っていたら、怒られるどころか、これまで見たこともない美しい宝石の数々を突然、贈呈されるようなものです。

それはイエシュアが、「私は迫害され、それによって主の祝福を受ける」と言った真相と同じことです。
あるいは、人生に苦悩し、占いに行き、そこで何気なく天使の名前を聞いて、すると、その天使がその夜に寝室に現れて、「こうしてあなたと出会うこの時を、実のところ私はずっと、何百年も心待ちにしていたのです」と言われるようなものかもしれません。

運命や出来事をコントロールすることは、本当に素晴らしいことでしょうか? 
自分の好きなものだけを集め、それらに囲まれることが?

なぜなら、それがどんな世界であれ、その世界と私は切り離せるものではないからです。どこにも始まりがなく、どこにも区切りや、糸の終わりがありません。全ては一つだからです。

それなのに、自分の思い通りにしようとすることが、本当に「美」をもたらすでしょうか? すでに完成されているジグソーパズルの絵画の中で、たった1ピースが突然、自然の流れに逆らって、「僕の隣は違う色のピースが良い。なぜなら、そのほうが僕は好きだから」と言うことが?

人は好きなことをやるべきですが、その「好きなこと」が欲望であるなら、苦悩するのは目に見えています。
欲望とは「自分の思い通りにしたい」という欲求ですが、自分の思い通りにならないということは目に見えています。

自己矛盾して葛藤する心が求めるもの、あるいは逃げ場所とするものが欲望ですが、その欲望がもたらすものは結局、自己矛盾と葛藤でしかないのです。

東京の友人は、このように伝えてくれました。「私は、自由でした」と。

物語の主人公の女性は、最後にこのように語ります。「私にできることはただ一つ」と。けれども、このセリフを勘違いしないでください。
このセリフは、愛を表現しているわけですが、「愛」というものは、単なる「受動的」を意味していません。もしもあなたが「愛」を直接的に、純粋体験するなら、「愛」というものが圧倒的な力そのものであることを理解するでしょう。

「私は、嫌なものでも何でも、我慢して受け入れなければならない」というのは、「愛」のセリフではありません。
それは文字通り、我慢や抑圧でしかないでしょう。そこに自由はないのです。
愛は、何かに服従することや奴隷となることではないし、愛には無言の確固たる主張があります。それは、波の止んだ海であり、雲の消えた空であり、太陽の反射の消えた月であり、「私」という感覚のない〈私〉です。

 自由だからこそ、愛せるのです。
 愛があるからこそ、自由でいられるのです。

誰も切り離せないし、糸がプツリと切れて終わることもありません。それは一枚の写真のように、ただ全体そのものなのです。

写真の中で「私」は主役であり脇役であり、あるいはビルや、散歩途中の犬の背景の一つでしかないかもしれません。
けれども、どんな名称で呼ぶにしろ、「私」は全体そのものなのであり、どこにも差別や区別がないものなのです。

つまり、意識とは、すべてのすべてなのです。
完成された絵画であり、仮にそこに線が見えて区切られているように思われても、実際にはどこにも境界線などないのです。

宝物を発見する時、それはいつも偶然の産物です。意図的なものは、欲望でしかないからです。

いつも足音もなく静かにやってくる。あるいは、見つけられるまで、じっとしている。決して、わざと隠れているわけでもなく、けれども、どういうわけか、私たちにはそれが、時が来るまでは見つけられないのです。

それでも、いつか突然、気配もなく宅配人がやってきて、きっとベルを鳴らすことでしょう。

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ヘルメス・J・シャンブ
1975年生まれ。30代前半、挫折と苦悩を転機に、導かれるように真理探求の道に入る。さまざまな教えを学び、寺で修業し、巡礼の旅に出るが、最終的に「全ては私の中に在る」と得心、悟入する。数回に分けて体験した目覚めにより、ワンネス(一つであること)を認識し、数々の教えの統合作業に入る。「在る」という教えは、これまでの師たちの伝統的な教えであるため、師たちの名前を借りて「ヘルメス・J・シャンブ」と名乗り、初著作『“それは在る』を執筆。 その後『道化師の石(ラピス)』『ヘルメス・ギーター』、独自の世界観を小説で表現した『プルートに抱かれて』などを刊行。現在は、ナチュラルスピリットの個人セッションなどで、探求者たちに教えを伝えている。

 

https://twitter.com/hermes_j_s
https://note.com/hermesjs

 

『プルートに抱かれて』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

 

『へルメス・ギーター』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

 

『道化師の石(ラピス) BOX入り1巻2巻セット』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

 

『 “それは在る』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット