書籍『 “それは在る』(ナチュラルスピリット)の大ブレイクを皮切りに、意識探求にまつわる 書籍や情報を次々と発信しているヘルメス・J・シャンブさん。
今回も、アイデンティティにまつわるお話をお届けしましょう。
※2冊目の著書『道化師の石(ラピス)』も小説仕立てで、独自の世界観を伝えています。

苦悩と恐怖を一切終焉させるのための書!
『知るべき知識の全て I 』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

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アイデンティティに関する些細な考察《後編》

「私とは何か?」人生において、このもっとも重要な問いを明らかにすることが  もちろん、他でもない自分自身に対してはっきりと明確にすることが  死活問題である。

文字通り、一刻も早く明らかにしなければならない。
時間は待ってはくれない。与えられた、限られた時間の中で、これほど重要な課題はないだろう(余談になるが、文字通り、時が迫りつつあるからである)。

なぜなら、いくら何を得て、どれほど何を達成しようとも、「自分が何なのかを知らない」のなら、主体のない出来事が意味を持つことはあり得ないだろうから。
あるいは、実際に、主体がない物語なので、意味がないのである。

主体  この主体は、変化してはならないし、変化するものは主体ではない。
「私は小学生だったが、いまや社会人である」
この人物と言われる者は一体、誰なのだろうか? 
「私はやがて老い、衰弱し、骨だけになって消えてしまうだろう」
主体は変化するものなのだろうか? 
もしも、変化するものであるなら、その時の主体とは一体、どのようなものであるのだろうか? 
つまり、主体とは何で、何を意味し、そこにどのような存在意義があるのだろうか? 

「私は現れたが、やがて消えるだろう」
これが「私」なのなら、その時の「主体」とはそもそも実在などしていない、霧のような存在でしかないのである。
そしてまさに、この変化する主体こそ、矛盾と葛藤、苦悩そのものなのである。なぜなら、この偽りの主体は、そもそも「主体」を持っていないからなのだ。

得た知識によって、私は変化する。
学んだ内容、体験や経験の数々によって、私は変化する。
あれを達成して、こうなったら、次にはまたあれを目標として  この土台のない不安定さが、あるいは、あたかも土台が存在しているかのような感覚を覚える錯覚現象が、幻想世界を創造する主体性(骨組み)である。

それは実際、影のように絶えず纏わりつき、ふと気づけばいつも顔を覗かせる「虚無感」として顕になっていることだろう。
どこからともなく湧き上がる不安や心配、あるいは恐怖とはこの「虚無感=主体がない」という感覚なのである。
ほとんどの人はこの虚無感を避け、無視をするために現実逃避=欲望に走ることになる。なぜなら、欲望とはまさに、偽主体、その存在感覚をもたらすからである(ところで、仕事に情熱を燃やす者もまた同じことである)。

前述の通り、まさにこれら全体が不安定さであり、この虚無感こそ、幻想世界を継続させる主体(骨組み)なのであり、この主体そのものが幻想なのだ。
種子が大きな幻想の樹木とその花を咲かせるが、その種子そのものが幻想であり、種子がないところには幻想もないのである。

何かをしていなければ、自分という感覚  あるべき姿の自分という感覚  がない、それだから人は静寂や沈黙することが怖くて仕方がない。
ところが、実体のない主体(だからこそ、本当は主体とは呼べないのだが)には、確固たる不動の土台がなく、ゆえに拠り所がなく、あてもなくさ迷うかのように、自分とは何なのかを定義しようと必死になる。
そして、それが自由意志と呼ばれ、「自分は何者かにならなければいけない」として、偽りのポジティブ(希望という概念)を生み出すことになるのだ。

しかしながら、その必死に求め続ける定義(あるいは目標と言っても良いのだが)とは、いつも一時的なもので、いつであれ、なんであれ、次の瞬間には必ず相反する思考、価値観や概念が浮かび、その矛盾と葛藤に苦悩することになる。

また、仮に何かを達成したところで、すぐにまた例の虚無感に襲われ、「・・・あれ、達成したはずなのに・・・次は、何をすれば自分は満たされるのだろう?」と思い悩むことになるだろう。
あたかも振り出しに戻ったかのように。

希望という、いくつもの枝分かれした線路を歩いている主体は、この出口の見えない迷路の中で「これか? あれか? どれが正しく、何が正解なのか?」と答えの出ない心理状態を継続させているのだが、一体どこに平安と真の満足があるのだろうか? 

本当に終着駅があるのだろうか? それは山手線のように、ただぐるぐると同じ景色を見ながら回り続けているだけではないだろうか? 
そもそも、虚無感、あるいは欠乏感から何かが必要だとして求め、旅をしているかのような人物、その主体とは何なのか? 

  とある大聖者は言った、「体の知覚作用という毒を避けなさい」と。
事実、「私とは何か?」を見出すのに、体やその身体状態は全く無関係であり、名前など、もっと意味がなく不必要である。
けれども、知覚作用に翻弄され、五感の誘惑に囚われると、ただただ情報や知識、名前だけを求め、自らあてのない、出口の見えない闇の中へ引き摺り込まれてしまうことになるだろう。

人は、「知りたい」と思う。ゆえに、知識を求める。
ところが、それが自分にとって、出口のない迷路に自ら入り込んでいくことだという事実に気づかない。真に知るべき知識とは唯一、「知るべきことは何もない」という知識だけなのだ。

そもそも不安定であり、それゆえに知識を求めて救われようとする、安心しようとするのだが、実際には知識を求めれば求めるほど、何かを得れば得るほど人はもっと不安定になるのである。
そしてその不安や心配、恐怖はマグマのように沸々と煮えたぎり、自分でも自覚できないほど攻撃的になってくるのだ(満たされない原因を、人や出来事のせいにしたいからである)。

「私は知っているが、あなたは知らない」と言って、知識と理論をもって攻撃すると同時に、「私はもっと新しいことを知らなければならない、なぜなら、まだ知らない何かを知り、手に入れれば、私はきっと完璧な存在になるだろう」と無意識に、頑なに思い込んでいるからである。

また、さらに、その心理状態がもたらすもっとも恐ろしい事実とは、当の本人が、自分が一体何をしているのかまったくわかっていない、ということなのだ。
「私は正しいことをしている」と信じ込み、疑うこともせずに、人を批判し、攻撃し、「私は正しいことをした」と自尊心に耽ることになる。

けれども、唯一無二の判断基準とは、そこで平安と幸福をもたらしたのか? 人を幸福な気持ちにしたのか? ということだけなのだ。

善悪は攻撃と被害、自尊心という、すなわち偽主体の存在感覚をもたらすが、愛あるいは優しさが、戦いや被害をもたらすことはあり得ないのである。

実在である叡智ではなく、幻想の中の儚い一時的な知識=言葉による情報を蓄え、それらに価値を付与すればするほど人は弱くなり、不安と心配、すなわち恐怖に襲われることになる。
そして、恐怖ゆえに自らの存在感覚を守り(正当化すること)、知識によって構築された主体を脅かすかに思えるいかなる存在(すなわち、意見が合わない他者、好みが異なり、気に入らない存在)を徹底的に批判したり、攻撃したりするのである。

が、それは自分の中にこらえきれないほどの不満と憎悪が蓄積されていて、自分ではどうしようもないからに他ならないのだ。これが、投影と言われるものである。

私は優しく、時に厳しく、時に弱くて、時に激怒する。
ここには、どのような主体も存在していない。見えるのは、ただの変化のみであって、「主体」とは変化するものではないのである。
不安や心配、恐怖があるのなら、それは主体ではない何者かが、主体を気取っているのだ。

そして、もしもそうならば、それは一体誰なのか? 
「私」そのものを観照するとき、静かに、何事もなかったかのように、主体を気取っていた幽霊は消え去る。そして残ったもの  それが「私」であり、真の「主体」なのだ。

目覚めた者は、ほっとする。笑う。楽になる。
なぜなら、「私は決して変化などしない」と自己認識するからである。
このアイデンティティ、主体こそ、他の何者でもなく、何にも例えることもできず、言い表す必要性さえない不動の主体であり、永遠の実在である。

幻想世界の中のあれこれの誘惑、すなわち情報、知識、知覚  身体の感覚作用から自由になった者に、もはや苦悩は訪れない。
表面的に、誰かと苦しみを共有したり、共に涙を流したり、時には怒ったり、あるいはバカみたいに一緒に大笑いをすることはあっても、目覚めたその「主体」は常に失われず、常に自己認識している。

彼らにとっては自分が誰で、何者なのか、真のアイデンティティが失われることは、もう二度とない。なぜなら、「私とは何か?」という最も大切な問いに、自ら答えているからである。

そして、その時、ネガティブという闇はポジティブに触れることさえできず、ただ自然と消されていくだけになるのである。
灯りが点ると、自然と闇が消えてしまうように。

 

ヘルメス・J・シャンブ
1975年生まれ。30代前半、挫折と苦悩を転機に、導かれるように真理探求の道に入る。さまざまな教えを学び、寺で修業し、巡礼の旅に出るが、最終的に「全ては私の中に在る」と得心、悟入する。数回に分けて体験した目覚めにより、ワンネス(一つであること)を認識し、数々の教えの統合作業に入る。「在る」という教えは、これまでの師たちの伝統的な教えであるため、師たちの名前を借りて「ヘルメス・J・シャンブ」と名乗り、初著作『“それは在る』を執筆。 その後『道化師の石(ラピス)』『ヘルメス・ギーター』、独自の世界観を小説で表現した『プルートに抱かれて』などを刊行。現在は、ナチュラルスピリットの個人セッションなどで、探求者たちに教えを伝えている。

 

https://twitter.com/hermes_j_s
https://note.com/hermesjs

 

『プルートに抱かれて』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

 

『へルメス・ギーター』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

 

『道化師の石(ラピス) BOX入り1巻2巻セット』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

 

『 “それは在る』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

 

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