この連載がきっかけとなって生まれた気づきの短編集『プルートに抱かれて』を、昨年8月に発売したヘルメス・J・シャンブさん。
2月中旬には、意識探求をテーマにした新刊が発売される予定です!
今回も、ヘルメスさんお得意の“小説タッチの気づきの物語”をお届けしましょう。
※2冊目の著書『道化師の石(ラピス)』も小説仕立てで、独自の世界観を伝えています。

 

単なる小説とは一線を画す、新鮮な体験!
『プルートに抱かれて』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

 

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運命というものは

別れというものは、まるで宅配人が見えないところから家のベルを鳴らしてくるように、何の音沙汰もなく突然、目の前に現れてくるものだと思うのだ。
もちろん、それは出会いも同じこと。それらは共に同じく、避けることができない。
けれども出会いとは始まりであり、これからずっと続いていく、あるいはずっと伸びていく一本の糸のように感じられるが、別れはそうではない。続いていた、伸びていた糸を誰かにぷつりと切られたように感じられるからだ。

交通事故があったと連絡がきて、突然、悲劇が開始される。状況が一変する。
今日も、明日も、その笑顔を見ることが当たり前であったのに、もはやそれは当たり前ではなくなった。あまりにもあっけなく、母の事故に加え、翌日には父が倒れた。脳出血だった。きっと、母のことをあまりにも考え、心配し過ぎたからだろうと思った。

が、だとして、一体、誰にそれを止めることができただろう? 私が考えることが可能なのは、いつも結果論でしかないのだ。あるいは、自分勝手な自己解釈の類いでしかない。
宅配人が家のベルを鳴らし、届けられた荷物に対して私はあれこれと思案する。私にできることは、そういうことでしかなかった。
むしろ、それしかないと思っていたし、そうすることが当たり前だった。どのような贈り物が届こうと、私にできること、私がするべきことはそうすることだった。

人生に、永遠のものはないとわかっていた。わざわざ、その事実を改めて提示し、明らかにしてくれるかのように、別れというものは、いつも失敗なく、滞りなく遂行されるようだ。しかも、忘れかけた時に限って。

いつか別れがあると知っていた。知っていたはずだった。
だが、受け入れるかどうかはまた別の問題だった。少なくとも、そのように思っていた。
自分の望み通りなら、いともたやすく受け入れるだろうし、望んでもいないものなら、受け入れ難い事実として私は拒否して抵抗するだろう。

すると、彼はこう言った。「それが人生というものだよ」と。
「でも、いいかい、私たちに可能なのは、判断や思案することではなくて、荷物を受け取るだけのことなのだ」。
清々しい風が通り過ぎるようにそう言われても、その時の私に何が理解できただろう? 自分の信念や当たり前と思っていたやり方を変更することほど、困難なものはない。

背負いたい荷物なんか、何もないはずだった。けれども、気づくといつも何かを背負っていて、しかもその荷物の重量は、私の判断によって測られるようだ。
毎日が忙しいだけで、人生は重荷のように感じ、毎日が暇で退屈がゆえに、人生は重荷のように感じ、突然の事故と悲劇によって、人生は重荷しかないように感じられるのだ。

彼は運命論者だったが、私はそうではない。
結果的に、それが原因で私たちは別れてしまったのだけれど、でも、結局のところ、私も彼と同じだった。むしろ、彼の抱えている荷物の方が、ずっと軽かったのだと思う。

丸の内のビルの隙間風が好きだ。
あの景色が異国へと私を運ぶようで、なびいた髪をまとめる仕草もまた一つの美しい光景だと私自身は思っていた。それらは切り離せないもので、つまり、私とそのビルと隙間風の光景には、別れが存在していない。
なぜなら、その糸は切れることがないからだ。

写真家だった彼は、私に言った。「そう、それが君の美しさなのだ」と。
どうして、私は今まで気づかなかったのだろう? 当時の私には、彼の言葉の意味がまるでわからなかった。ビルもその隙間風も、全てが私の一部であるということが。

切り取られた一枚の写真。時が止まった永遠のその路上には、ただ全体が一つとなった絵の美しさだけがあった。けれども、彼には見えているそれが、私にはまるで見えなかったのだ。
なぜなら私は、常に私自身のことしか考えていなかったからだと思う。

母は病院のベッドでほとんど寝たきりになり、時々、車椅子に乗せられ、これまでその口から聞いたこともない出来事の話をする。
知らない出来事、あり得ない話。存在しない子どものことを、「あの子はどうした?」と言ってくる。

私は泣いた。信じられないくらいに、病院からの帰りの車の中で号泣した。
前方の車のナンバーは判別がつかず、信号機の色はぼやけ、水に溶けた絵の具のように滲んでいた。嗚咽が止まらず、背負いたくない重荷を恨みそうになった。
もしも彼が助手席にいたら、きっとそんな私の横顔をフィルムにおさめたことだろう。何の配慮もなしに、気遣いの言葉もなしに、そうしてこのように告げただろう。
「いいかい、これが運命なのだ。切り離せない糸なのだ。そうして、そこに美しさが見え隠れしている」。
もしかしたら、私は彼に今すぐ、そんなふうに言ってもらいたいのかもしれない。

避けられないこと。それが運命かもしれないけれど、でも、私はこのように思うのだ。

避ける必要があるのだろうか?
私の価値観と判断で取捨選択して、あるいは好き勝手に必要なものと不必要なものを区別して、出来事や体験やそれらにまつわる問題を、自分で起こしたり起こさなかったり・・・。
つまり、こういうことだ。
"避けたい"とは、自分の思い通りに出来事を操作したい、というだけのこと。もし、それで自分の欲しいものだけを手に入れることができたとしたら?

もしも、そんなことができたとしたら、私は本当にそれを望むのだろうか?
避けたいものを、簡単に避けられるとしたら? 自分の欲望のままに、出来事をコントロールできたとしたら? 

そこに、なんらかの美があるのだろうか?
そこに、全体が調和した、永遠に色褪せない一枚の絵があるのだろうか?
そこに、どんな言葉でも表現できない愛という類いのものが、あり得るだろうか?

避けることで、愛を見たり、知ることができる?
だから、私は思うのだ。
避ける必要があるのだろうか?
時が止まったその永遠の路上から、どうして消えようとする必要がある?
どうして、一枚の絵であることから逃げようとする

運命というものは、ある日の昼下がりに、郵便配達人が手紙を届けてくれるようなもの。私はその手紙を受け取り、封を切って、ゆっくりと目を通してみる。
何が書かれているかは重要ではない。どんなにきれいな文字も、恐ろしい批判の文句も、重要ではない。
だから、私は読み終えたその手紙を何事もなかったかのようにテーブルの上に置いて、それからそっと手を伸ばして、まだ温かいコーヒーカップを手に取る。

どうしてかって?
それが運命というものだから。それがどこまでも繋がっている糸だと感じるから。
ぷつりと切られたように思えても、どこまでも繋がっている。このまだ温かいコーヒーを飲むところまで。
そうして私は椅子から立ち上がって、散歩を兼ねて夕飯の材料の買い出しに向かう。明日にはまた、丸の内の片隅にあるビルの中で仕事をして、昼には息抜きの風に吹かれるだろう。

私は何かを受け取っただろうか?
受け取る必要のある重荷が、どこかに存在するだろうか?
重荷と判断する必要性が、私に必要だろうか?

母は言った。「あの子はどうしたの?」
私は答えた。「母さん、私には子どもはいないのよ、結婚もしてないの」
けれども、母は心配そうにこう言った。「もしかして、死んでしまったのかい?」

それから私は涙を堪えて、誰よりも母のことを抱きしめてあげたいと思ったのだ。もしも、これが運命だというのなら、私にできることはただ一つ。そう、ただ一つだけ。

 

ヘルメス・J・シャンブ
1975年生まれ。30代前半、挫折と苦悩を転機に、導かれるように真理探求の道に入る。さまざまな教えを学び、寺で修業し、巡礼の旅に出るが、最終的に「全ては私の中に在る」と得心、悟入する。数回に分けて体験した目覚めにより、ワンネス(一つであること)を認識し、数々の教えの統合作業に入る。「在る」という教えは、これまでの師たちの伝統的な教えであるため、師たちの名前を借りて「ヘルメス・J・シャンブ」と名乗り、初著作『“それは在る』を執筆。 その後『道化師の石(ラピス)』も刊行。現在は、ナチュラルスピリットでの個人セッションなどで、探求者たちに教えを伝えている。

 

https://twitter.com/hermes_j_s
https://note.com/hermesjs

『へルメス・ギーター』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

 

『道化師の石(ラピス) BOX入り1巻2巻セット』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

 

『 “それは在る』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット

 

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