この連載がきっかけとなって生まれた気づきの短編集『プルートに抱かれて』を、昨年8月に発売したヘルメス・J・シャンブさん。
この2月に、意識探求をテーマにした新刊が発売されたばかり!
今回も、ヘルメスさんお得意の“小説タッチの気づきの物語”をお届けしましょう。
※2冊目の著書『道化師の石(ラピス)』も小説仕立てで、独自の世界観を伝えています。
苦悩と恐怖を一切終焉させるのための書!
『知るべき知識の全て』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット
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鈴蘭 〈幸福の再来〉
父は多くを語らない人だった。どちらかと言えば無口で、頑固な印象しか残っていない。
「やると決めたら、やる」
記憶に残っている言葉は、わずかだ。教えを説くような人ではなかったし、僕と父との関係性の中に、教え、そして学ぶという図式はなかったように思える。
「やりたいことがあるなら、やりなさい。何でもいい。だが、一度決めたら、やり抜きなさい。それが何であっても、俺は支えてやる」
今思えば、父ほど優しい人はいなかったように思える。
音大に入ったばかりの頃、僕は不安でいっぱいだった。母はその進路を喜ばなかったし、成功者が一握りであることは、わかっていたからだ。
僕は音について学んでいるのではなくて、どのようにしたら歌がうまくなるのか、どうしたら成功できるのか、そのようなことばかり考えて苦悩していた。
呼吸法を学んだが、歌がうまくなることはなかった。小鳥の歌声に憧れて、数日間、三鷹の森にテントを張って自然の中で生活したこともあった。
けれども、樹木が軋むその音にさえ、僕の歌声が優ることはなかった。むしろ、いつも敗北を感じた。
方法とは、勝利を得るための方程式でしかなくて、ところがいつも勝者というものは、どんな方程式も使うことがないように思える。
スタイルのない者に打ち勝つ術はなく、スタイルを求めると、いつも倒されてしまう。つまり、形を持てば破壊されるのだ。
個体よりも液体に、液体よりも気体になれるなら、どれだけ自由にいられるだろうと考えたことがある。
けれども、矛盾するかのように、その時の僕はいつも方法やスタイルばかりを求めて、そうして形を作ることで自由になれると思っていた。
後になって気づいたことだけれど、形とは恐怖から自分を守るためのものでしかなくて、つまりそれは、やがて破壊されることを暗に含有している。
ある日、苦悩しているさまを見兼ねたのか、担当教師がこのように声をかけてくれた。
「君は、鈴蘭の香りをかいだことがあるかね?」
花に興味のない僕は、ありません、とぶっきらぼうに答えた。
「なら、薔薇の香りはどうかね?」
もちろん、薔薇の香りなら知っていた。すると、教師はこのように言った。
「どうして、無臭の中に香りがあるのだろう? 香りとは、無臭の中に含まれているものなのだ」
まさか、そんなわけがない、と思った。香りが、香りのない状態から生まれるだって?
「同じように」と教師は続けた。
「無音の中に、すでに音があるのだ。どういうことか、わかるかね? 無音とは、実のところ、一つの音で充実しているのだよ。
でも、それは静寂のように感じられる。何も音が存在しないかのようにね。しかし、それこそが音の父と母なのだ」
アパートに帰宅するなり、僕は静かにしてみた。どんな音もない状態を探してみたけれど、それは不可能だった。けれどもふと、一つのことに気づいたのだった。
僕が手を叩くと、音が鳴った。片手そのものには、もちろん音が無かった。けれども、その片手同士がぶつかると、パチンと音が鳴るのだ。
どちらの手も、父であり母だと思った。
何だか、面白おかしくなってきて、僕は何度も手を叩いた。新しいおもちゃでも手に入れたかのように、無邪気に手を叩いて遊んだ。
音とは、抵抗だ、と思った。抵抗とその摩擦が、音なのだと。
じゃあ、と僕はさらに考えてみた。
抵抗とは一体、何?
どうして、ぶつかると音が鳴るのか?
あまりにも自然すぎて、これまでそんなことを一度も考えたことがなかった。それは新鮮な探求で、僕は不思議で仕方がなくなったのだ。
片手が音を持っているかと言えば、そうではないように感じられる。片手が何にも触れずに、音が鳴ることはない。
けれども、そんな手と手がぶつかると、そこに独自の音が鳴り響く。なんて、不思議なことだろう?
でも、教師が教えてくれたのは、つまりこういうことだ。
「その音のない片手は、すでに一つの音で充実している」
それから僕は、近くの公園へと出かけて行った。網を抱えてトンボや蝶々を捕まえに行くようにワクワクしていた。
鈴蘭は、どこにある?
そうして探してみたけれど、どこにも見当たらない。そもそも、その花がどのような形や色をしているのか、知らなかった。
けれども僕は携帯電話とかで調べることもせず、ただ花らしいものが見えるとそこに向かって、その香りをかいでみた。
鈴蘭かもしれないし、そうではないかもしれない。仮に、鈴蘭の香りをかいでいたとしても、僕はそれと知ることがないだろう。
僕は、偶然発明したその何とも言えない遊びが楽しくてたまらなくなった。宝物を探しているのに、どれが宝物なのか、知ることがないのだ。
そうしているうちに、とても芳しい香りのする花を見つけた。それが何という名前の花なのか、今でも知る由がない。
けれども、名前が重要だろうか?
それが、花を知るということになるだろうか?
その花の香りは繊細で、シルクの糸のように優しく鼻をかすめていくのだった。僕はそれから、一つのことを考えてみた。
一本の糸を手繰り寄せていくように、この香りをたどって行ったなら、この花の内部の、一体どこにたどり着くのだろうか?
そこには香りの心臓ともいうべき、あるいは香りの生みの親ともいうべき何らかの物質が存在しているのだろうか?
そしてまた、その物質の内部をさらに探検してみるなら、そこには一体何があるのだろうか?
すると、一つのアイデアが鳩のように舞い降りた。
「そこには、何もない。けれど、そこにこそ、全てがある」
そして次の瞬間、僕に、まったく予期していない来客の訪問があったのだ。
僕は、捉えどころのない平安に満たされた。
そう、そこには音が皆無で、けれども確かに優しさや、芳しい香りさえ感じられた。音がないのに、どこか歌っているようにも感じられたのだった。
こんな平安な状態を、これまでに僕は体験したことがあっただろうか? うれしさのあまり、公園の芝生に大の字に寝転がって、目の前いっぱいに広がる青空を見上げた。
音とは、抵抗だ。音楽とは、抵抗と摩擦だ。
でも、それらの消滅と共に、抵抗や摩擦のない一つの音楽が流れているようにも聞こえた。抵抗があれば、僕は苦しむばかりだ。
どうして、苦しみの中で自由に歌うことができるだろう? 方程式やスタイルやルールをいくら作り出しても、決して自由に歌うことはできないし、むしろ形があることが不自由さなのだと思った。
すると、小鳥がさえずった。樹木の軋む音が大地から伝わった。雲が空気と擦れる音が聞こえて、飛行機の爆音がそれをかき消した。
現れた音が、また無音の中に消えていく。けれどもそこにはまた音楽があって、その無限の空白が様々な音符を作り出しているようだった。
偉大なる音楽とは、これだ、と思った。
僕は名も知らない、優しい香りのする花にさようならをして、急いで大学に戻った。そして、教員室のドアを開けると、教師にこう言った。
「うまく歌おうとすることが自然への抵抗であり、苦悩の声とは、その摩擦音でしかありません」
それから僕は歌った。
教師たちは皆、唖然としたが、やがて一人、一人と笑みをこぼし始めた。
そこには歌声があり、抵抗と摩擦があり、それでも不思議なことに、僕にはどんな抵抗も存在しなかったのだ。自由だった。
不思議だと思った。そこには、自分さえいないように感じられた。
僕は歌った。自由気ままに歌った。これこそ、僕の音楽だと思った。
そして、きっと父と母がいるからこそ、僕が歌うことができるのだと思った。
父は、始めから自由を与えてくれていた。僕はいつの間にか道に迷い、苦悩し、そんな時も父は無条件に支え続けてくれていた。
そう、そして僕はようやく、まるで目が覚めたように、自由の意味を知ったのだった。
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ヘルメス・J・シャンブ
1975年生まれ。30代前半、挫折と苦悩を転機に、導かれるように真理探求の道に入る。さまざまな教えを学び、寺で修業し、巡礼の旅に出るが、最終的に「全ては私の中に在る」と得心、悟入する。数回に分けて体験した目覚めにより、ワンネス(一つであること)を認識し、数々の教えの統合作業に入る。「在る」という教えは、これまでの師たちの伝統的な教えであるため、師たちの名前を借りて「ヘルメス・J・シャンブ」と名乗り、初著作『“それ”は在る』を執筆。 その後『道化師の石(ラピス)』も刊行。現在は、ナチュラルスピリットでの個人セッションなどで、探求者たちに教えを伝えている。
https://twitter.com/hermes_j_s
https://note.com/hermesjs
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