去年の年末から、ショートショートとか短編小説などを書いている。これまで長い間ずっと解説・説明のスタイルの本ばかりを書いているのだが、すでに書き終わったがまだ出版されていない本が4冊溜まっていて「これはある種の便秘だ」と思ったので、全部出版されるまで待つことにして、空いた時間にフィクションを書こうと思ったのだ。
フィクションのいいところは、象徴を象徴的なまま展開して解説を加えない。言いたいことは直接言わず、その周辺をぐるぐる回って暗示するだけだ。いままでずっと説明脳を使っていたので、それなりにその部位は疲れており、これを保養できるというメリットは大きい。

地球に住んでいる人類の共通した考え方の特徴と言えば、象徴と事物は異なる素材で作られ、それでいて象徴と事物が結合しているということにある。太陽と地球の距離が想定外に離れ、太陽の光が地球に届く比率が減って、地球が重くなりすぎたことが理由だ。
昔からの言い方だと「精神と現実が食い違う」とか、「宗教と科学の対立が残されたまま、人間はこの両方にまたがって生きている」ということだ。椅子は木製とか金属製とかいろいろあり、それらに同じ椅子という象徴を貼り付けるが、椅子がものに侵略したりはしないので、どれもおとなしく椅子であり続ける。

ドロレス・キャノンのセッションで登場する宇宙人たちは、「想念は物質を支配する」と主張している。これは彼らが地球に住んでいないからで、地球では「象徴と事物が従う法則は違う」ということを基本にしており、事物すなわち物質は想念、イメージ、精神などには反応しない。
すると象徴性と事物のどちらかが、相手に譲歩しなくてはならないことにもなる。地上の人間はみな頭はひとつ、手ふたつ、足ふたつという具合に同じような形をしていて、これを基準にすると、それぞれの人の精神とか想念などが違うということはなかったことにする。
あるいは違いがあっても、それはたいして重要でないオマケみたいなものとみなす。

反対に、想念が物質や事物を支配するような生き物に変化すると、今度は想念にあわせた物質肉体を持つことになり、同じ形の生き物にはならないはずだ。量産される制服でなく、お客様の要望に従ってひとつひとつ作っていく洋服はみな違うのだ。

想念が物質を支配するという概念は、今の地球人には想像できない。グルジエフは不死の話を持ち出すが、人間の肉体は寿命がだいたい決まっているので、不死になるには、生命の実体としての象徴、精神、想念などが物質肉体に侵食されないことが必要だ。
いまのところ、わたしたちの精神は肉体に食いつぶされ、いいように扱われている。不死の身体を持つには、想念には反応しない鈍い物質を脱ぎ捨てて、想念に反応する柔らかい物質に乗り換えることが必要で、これを「羽化」という。

通常の死は事物としての肉体を捨てるが、すると象徴的本質は本来非局在的なものなので、結果的にどの時間にもどの場所にも存在できなくなる。
特定の時空間に存在する物体、すなわちある特定の生き物という存在でありつつ不死になるには、想念に従う柔らかい事物としての肉体に乗せかえるのは必須事項だ。
わたしは「この肉体は電磁気的相互作用に振り回されない物質で作られなくてはならない」と主張していた。

夢について書いた本はまだ出版されていないのだが、人は眠った時、身体は死んだように動かなくなる。
連続性を維持するためにはひとときも休みたくない自我は、非活動の肉体と同一化すると自分が死んでしまうので、肉体に結びついてはいるが、肉体よりもはるかに広い範囲に拡大していくエーテル体に自分を乗せる。
エーテル体は局在と非局在を繋ぐ「つなぎ材」なので、肉体に張りついて働いていたイメージとか自我意識は狭いところから解放され、それはあたかも爆発したような状況になる。
エーテル体は植物的性質なのだが、植物の形を考えてみると、四方八方に枝が伸びて、これは爆発した光景に似ている。肉体とともに成長してきた自我からすると、とうてい扱えない自由性があるからこそ、肉体自我はそこで意識喪失する。

しかし植物的自我はちゃんと活動しており、狭い枠の縛りから開放されてリラックスしている。
肉体自我からすると四角四面の尺度がないので、夢の体験は地盤のないところに放り出されたようになってしまうので、夢の内容はでたらめに見えてくるが、実はでたらめに見えるのは肉体自我がうまくハンドルを握れないからで、夢体験は象徴性や精神にはおどろくほど忠実な正確さを発揮する。
で、この夢の、物質肉体でなく、柔らかいエーテル素材に乗せ替えられたところで体験していくというのは、羽化プロセスとかなり似ているので、「夢を利用して不死の身体を手に入れる練習をする」というのはそう非現実な話ではなく、ちょっとシステム化したい誘惑にかられる。

そもそも人間の意識や自我は、身体から外に出ることができるし、どんな対象の中にも入り込むことができる。いったん身体から出てしまうと、ものの大きさ、また時間の秩序というものがあてにならなくなる。
というのも、わたしたちは時間と空間の判断の尺度として肉体を基準にしていたので、外に出てしまうと、まったくよりどころがなくなってしまうのだ。
夢は肉体から離れた体験なので、ここで、肉体の台座よりももっと抽象的な台座を作り出して、自立的な軸というか重心を持てば、夢体験は意識的に連続する体験ともなり、また肉体を持って生きている時も、この物質的尺度に閉じ込められず、世界を鳥瞰的に見つめることができる。

わたしたちの実生活では象徴が事物に乗った時に、事物の枠の中で、象徴が大人しく夢見するのだが、そもそも非局在的な象徴性が、特定の場所にしか存在できない事物の範囲に閉じ込められるというのは、あまりにも不自然だ。
象徴が「絵の額縁」とか、「テレビの画面」に例えられるような四角の枠から外に飛び出していくというのは、夢体験が代表的にしても、ちょっとおとなしい形でならば創作などで体験することができる。
創作は事物性の枠からはみ出すので、それ自身の独立性が要求されており、芸術とはこの自立性が最大の特徴であると言うことができる。
自立性を持たない芸術作品は偽物で、つまり、それは事物に依存して成り立つのですぐに消え去る。絵画であれば、その構図をみると自立性があるかどうかはすぐにわかるはずだ。

たとえば音楽について考えてみると、そもそも聴覚は唯一身体から開放されていく感覚であり、音楽はそれ自身で存在し、具体的な生活のどの面にも依存せず協力もしないので、基本的には何の役にも立たない。
森山良子の「さとうきび畑」を聞いて、これは歌としては上手だが、さとうきび畑に込められたメッセージを忠実にあらわしていないという批判を読んだことがある。やはり沖縄出身の歌手でないと怒りも悲しみも表現できない、と。

が、音楽は自立的であり、メッセージに振り回されてはいけない。本当の音楽とは何のメッセージも担っておらず、何を表現しているのかよくわからない、たとえばブルックナーの交響曲のようなものが正当なもので、いまだに何を言いたいのかわからない。
自立的なものとは、結局、具体的な事物性のどこにも寄りかからず、いかなる道具にもならない実用性に欠けたものなのだ。バンクシーの絵には風刺が含まれていると言われているが、その点では低俗な絵で芸術にはならない。

象徴性が事物の四角の枠から飛び出して、それ自身での自立性を持つのが芸術。
不死性とは、限られた範囲でしか通用しない事物性には寄りかかっていないということなのだ。夢も予知夢のような要素を持ってはならない。「それは実生活とは何の関係もない」ということになるのが理想だ。
フィクションでは象徴的な表現をするときに、それについて解説などしない。そして解説をしないまま象徴が象徴を弄び、よくわからないうちに話がおかしな方向に進み、気持ちとしてはわかるけど、頭脳的にはいまひとつ理解できないという形で物語が進む。
中途半端な作品は、きっと実生活の何かに対してのメッセージとか説明が入ってしまい、それ自身が単独では成立できない半人前のものになる。

2019年、早めの時期に、ナチュラルスピリットから松村潔さんの『夢を使って宇宙に飛び出そう』(仮題)を出版予定です。どうぞ、お楽しみに!

松村潔
まつむらきよし/1953年生まれ。占星術、タロットカード、十牛図、エニアグラム、ライフシンボルなど、 いくつかの手法を活用して講座・研究会などを開催。アカシックリーディング等でも、タロットカードや占星術を併用すると安定性が高いという考えから、ツールの複合性を提案している。『わたしの運命がわかる地球星座占い』(角川書店)、『ディグリー占星術』『三次元占星術』(以上、説話社)、『土星占星術講座』(技術評論社)など著書多数。
http://www.tora.ne.jp/

 

『分身トゥルパをつくって次元を超える』
― 秘教の体系と神秘体験から見出した不死の身体とは
松村潔著/ナチュラルスピリット

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