内なる光を発見し、愛で明るく照らす生き方を
──非常に興味深いお話を聞けて、私自身も幸せを感じています。これから最初に行ったように、1〜2分、ともに静寂を共有できたらと思います。その静寂は、もっともっと愛に満ちたものになると感じています。
(全員が3分ほど、静かな時を過ごしました)
ありがとうございます。私たちは、自らの中の静寂の中で、日夜、導きを得ながら生きているんだと思います。私自身、導きを得る中で“この世の中をいかに良くしていくか”にフォーカスする時代は、たぶんもう終わっているんだと感じています。どうしたらより調和した社会にできるのか、人生をより良くできるのかということ以上に、もっと大事なことが、ここで分かち合われました。
それは、静寂や愛を深く実感しながら喜びをもって生きること。そのことこそが、自己犠牲をしながら世のため人のために働くこと以上に、最も本質的なことだと感じています。
最後に、これからの時代、どんな意識状態で生きていくことが、自分の役割やダルマを果たしていくことになるのかを、ひと言ずつ、いただきたいと思います。
青山
今日の打ち合わせの際、スワミとお話をさせていただきました。今年は台風でたくさんの方が亡くなったり、中国地方では大雨で200人も亡くなったり、北日本でも大地震が起きたりしています。それに対し、「何かしら自然の法則を侵しているのであれば、自然界はそういう形で私たちに何かを教えてくれようとします。そのことの現れです」とおっしゃったんですね。
では、私たちは、どういうことができるのかということになりますが、やはりそれぞれが、自然の法則に沿った生き方をする、あるいは、自分の意識状態を高めていくような生き方をするしかないんだと思います。
国や政治家に私たちを幸せにしてくださいと言っても、何もしてはもらえないですね。逆に、私たちの意識自体が国を支え、世界の状態を決めていくというのが、ヴェーダ的な考え方です。
私が本を書き、講演をするようになってから、よく質問されることがあります。「次に何をしたらいいのかわからない」「今回の人生、何をしに生まれてきたのかがわからない。それが苦しい」と言われるんですね。
何をしに生まれて来たかは、それぞれの心のありよう、その時どきの意識レベルでしかわからないということがあります。
聖者ヴィヴェーカーナンダでさえ、若い頃は馬を駆って野原を駆け巡られればそれで幸せになれると思っていました。成長して貞淑な妻をもらったら、幸せになれると思っていたんです。その後、ラーマクリシュナ・パラマハンサに見出され、彼はヴェーダ哲学の深い世界を西洋世界に驚くべき形で伝えました。そういうダルマがあったんですね。
彼のような宗教的巨人であっても、その時、その時の意識レベルでしか、自分のダルマがわからないんです。
「人生がよくわからない」と言われたら、私は「黙って瞑想してみましょう。一日だけではなく、できれば継続的に」と申し上げます。そうすると、後になって「おっしゃったことがよくわかりました。だんだん自然に道が拓けてきました」と言われたりします。
私たちは瞑想だけでなく、聖典を研究したり、師の見解を聞いたり、勉強したり、考えたり、祈ったり、そういうことを全てやりながら、同時に意識が拡大されていき、自分は何をしに生まれてきたのか、何が人生の目的なのかが徐々に見えてきます。悟りを啓(ひら)くまでは、完全にはわからないにしても、徐々にそれは私たちの意識の中で広がり、深まっていくものだと思うんですね。
聖者や天才であっても、最初からそれをわかってなかったはずです。しかし、何かの時に、自然界がそれを教えてくれることもあります。
ヴェーダの格言に、「ヴェーダの女神は、ヴェーダの真理を理解してくれる、その知識を使って周りの人たちも自分も幸せになってくれる、そんな魂をさがしている」というのがあります。準備のできている人、準備ができた畑があれば、ヴェーダの女神が、ヴェーダの真理が、心に入ってこられます。ヴェーダでなくても、日本の神々と言ってもいいでしょう。
心を見つけて、私たちの願いを聞いて入ってこられる、ということが実際にあるので、何が自分の使命なのか、ダルマなのか最初はわからなくても、徐々にそれがわかってくるということがあるんです。
藤田
子供の時に、宇宙に重力という不思議な力があり、それが宇宙を一つにまとめていることを知った時に、すごく感動した覚えがあります。
その後、ビッグバンを知りました。宇宙は最初は極小だったのが、ビッグバンで爆発して、今の宇宙になっているという理論ですが、ということは“最初から僕らは宇宙の材料でできている”ということですよね。
重力は、物をつなげている力ですので、“宇宙というのは最初から物が相互につながった形で展開している”“つながることを求めて存在している”というふうに僕は受け取めたんです。仏教というのは、“縁起でつながっている”とみなしますが、そのことを発見したのはブッダであり、「やはりそうなのか」と納得しました。
僕らの現実を見れば、必要のない分断というものがあちこちで起きています。自分の中にも分断があるし、周りにも分断がある。小さなスケールから大きなスケールまで、まぁ、戦争や家族のいがみ合いなどがいい例ですが。
本来、宇宙が“つながりのデザイン”に基づいて運行している=生きているにもかかわらず、僕らの現実は対立や分断が起きている、これはどういうことか? というのが大きな問題ですね。
そういうところから見ると、僕らはほとんどの場合、親がよかれと思って「あなたのために」という愛という名の圧力をかけて、既存の社会に適応するように育てていることが多いように思います。もちろん、そうではない方もいますが。
社会、つまり世間というのは圧力をかけるので、そこからいかに自分を解放するかが、僕にとっては大きな問題だったんですね。
そんな中、ブッダは、出家という在り方を教えてくれています。出家というのは、必ずしもお坊さんになる必要はなくて、自分の人生を自由にクリエイトしていく、自分のダルマに目覚めてそれを具体化していくために自分の人生を費やすこと。そのような生き方が、出家の本来の在り方だと僕は思っています。
必ずしも、衣を着たり、頭を剃る必要はない。皆さんも、出家というひとつの生きる態度を選ぶことができるわけですね。
それは社会から見れば、川上に向かって泳ぐようなもので抵抗があるけれど、そのために学校で習うことを逆手にとって利用していくことが、これからのひとり一人の課題じゃないかなと思います。
もちろん、流されてもいいです。それは人に押し付けるようなものではないので。
僕がお勧めしているのは、社会を分断する方向ではなく、つながりを見つけていく方向であり、育てていくこと。職場や学校や家庭など、皆さんの置かれている場や社会のいろんな活動の中で、切れているものをつなげていく形でダルマを果たしていくというのが、ひとつの生き方かなと思います。
パラマハンサ・ヴィシュワナンダ
一照さんが、つなげるものという話をしましたが、全くその通りです。私はよく聞かれます。
「なぜ、スワミはいつも幸せな顔をしているのですか? 心配なことはないのでしょうか?」と。私は答えます。
「世界にはもう、十分心配している人がいるから、私はそれ以上、心配の方に加わりません」。
先ほど、ダルマの話がありました。この世界の全てのものには、ダルマがあります。例えば、水のダルマは冷ます、火のダルマは熱を与える、人間のダルマは何であるかと言えば、愛することです。
人間がやるべきことというのは、愛することであり、愛は全ての人の中にあります。愛を感じたことのない人は一人もいません。例えば、犯罪者であったとしても、必ず人生のどこかで愛を感じたことがあります。
愛というのは、自分の外側を探してもどこにもなくて、自分の内側だけにあります。いくら外側を探しても、見つけることができないものなのです。
あなたが自分の心の海に深く潜って行くことができれば、そこにある愛を自分のものとして、全てのものとつながることができるようになります。例えば、犯罪者が自分の中の愛を感じ、その後で犯罪を犯したとしても、その人の中にはやはり愛が存在します。
私たちのダルマとは、愛を表現していくことです。毎日毎日、新しい日がやって来ますが、必ず、その日の「愛するべきこと」が目の前にやってきます。毎日、その日の中で、愛するべきことを見つけて、この宇宙にあるものとつながっていくことをしてください。
世の中の90%の人は、自分の人生を生きていません。皆、他の人から言われた生き方をしています。それは親や社会から言われた生き方であり、自分らしい生き方ではありません。
バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナが言っています。
「他の人の義務を負っていては、あなたは幸せなれない。あなたは自分自身の義務を果たしなさい」と。
つまり、あなたは自分自身だけの目的を果たさなければなりません。それは、あなたの人生の中で、何かを変えていかなければならないということです。あなたが変わることで、宇宙のエネルギーの何かが変わっていくことになります。それが、宇宙的なダルマに影響していきます。
それこそ、平和や光といったものに……。
仮に何百年間、あなたの住まいが暗闇の中にあったとしても、そこにあなたがロウソクを一本灯すだけで、その場が明るくなります。
それと全く同じことが言えます。どんなに深い人生の問題があったとしても、あなたが自分自身の内なる光を発見し、そこを明るく照らすことができれば、その問題を超えていくことができるのです。
そのために必要なのは、ただ愛のみです。
『JUST LOVE ただ愛のみ』
シュリ・スワミ・ヴィシュワナンダ著/山下豊子訳/ナチュラルスピリット