祈りとは自分を宇宙に差し出し、人生の全てを楽しむこと
──大変興味深く、感銘を受けました。ではスワミ、祈りについてお聞せください。
パラマハンサ・ヴィシュワナンダ
私たちが何をするのであれ、愛をもってすること。それが、祈りとなります。祈る際は、楽しんで行うことです。
もちろん、膝づいて祈ることも大切ですし、それがいけないわけではありませんが、祈りとはそれだけではないのです。
自分を宇宙に差し出すこと、人生でやる全てのことを楽しむことが祈りです。
楽しんでやらなければ、何事も意味を成しません。人生の中で、多くの人たちがたくさんのことをしています。でも、それを楽しんでいる人が、どれほどいるでしょうか?
楽しんでいないなら、なぜ、それをするのでしょう?
大切なことは、なぜ、自分がそれをしているのか、それを楽しんでいるのかを、ちゃんと知ることです。何かを求めて祈るのは、それはそれでいいですが、本当の祈りにはなっていません。自分の内側の深い部分から来るものでなければ、祈りとは呼べません。
その反対に、食べるにしても飲むにしても、トイレに行くにしても、それを心から楽しんで行うのであれば、それが祈りになります。
聖書の中で、イエス・キリストがこう言いました。「あなたの信仰があなたを癒した」。これは真実です。このことを理解することが非常に大切です。私たちは、イエス・キリストが成したような本物の信仰を身に付ける必要があります。
私たちは人生の旅を普通に行っていますが、日常生活を送る中で、満たされず、「どうして満足できないのか?」と思い始めた時、「何か別のものがあるかもしれない」と探し始めます。
仮に、哲学に向き合っている人がいても、哲学で十分な答えが与えられることはありません。なぜなら、本当に必要なのは愛だからです。愛というもの、その深さを理解しなければ、それは祈りにはなりません。
例えば、あなたが誰かとの関係性を持つにあたり、その関係性を維持するために何をしなければいけないでしょうか? あなたは相手のことを、もっと知ろうとします。それと同じことが、神との関係においても言えます。
ですから、神のことを心から信じること、神を信頼することです。愛や信頼なくして、神との関係は何ら生まれません。祈りにもなりません。
祈りに近いものに、「マントラ」があります。マントラはサンスクリット語で、この言葉を分けると「マン」と「トラ」。「マン」とは、自分を守るシールドを意味し、「トラ」は、守るという意味ですが、実際、神と向き合うためには大切なものです。
では、何から守るのかといえば、“あなた自身のマインドから本当の自分を守る”という意味になります。あなたの敵は外側にいるのではなく、自分の内なるマインドなのです。
バガヴァッド・ギーターという聖典の中で、クリシュナ神も言っています。
「あなたが自分をコントロールできれば、心はあなたの友である。それができなければ、心はあなたの敵である」。
皆、自分の外側に敵がいると思っていますが、そうではなく、敵は自分の内側にいます。そのため、マントラを唱え、祈るのです。私たちが向かっていくところとは、単に意識の上の方のレベルではなく、スーパーコンシャスネスという超意識のレベルだからです。
青山
今、スワミが喜びとか、祈る時の楽しさについてお話されました。
私は厳格なカトリックの学校で過ごしましたので、「神様にお仕えするのは素晴らしいことだけど、苦しいことなのだ」と常に教えられてきました。「その苦しみを乗り越えるんだ、がんばれ!」みたいな中で過ごしたのですが(笑)。
今は1日の中で30分、1時間と瞑想しますが、多くの方は「どうやったら、そんなに瞑想できるんですか?」「そんなに瞑想してたら、退屈ではないですか?」と言われます。
それを続けられるのは、「将来こうなりたいから」「神様にこうしてほしいから」というよりは、それが楽しいからなんです。楽しかったり、喜びが湧いてきたり、心の中の静けさになんとも言えない魅力を感じたり。
意識の深いレベルに行けば行くほど、そこは魅力的なんですね。それが神様の魅力なのか、自然界の魅力なのか、真実の魅力なのか、言いようがないんですが、深いレベルに入って行けば行くほど、そこに静けさと、「もっと深くに入って行きたい」という喜びを感じます。
祈りも同じだと思うんです。そこに行けばイエス様と語り合える、そういう思いがないと続かないですね。
心は魅力的なもの、喜びを感じられるものに向かうようにできています。内側に向かったら、より大きな魅力があることに気づくと、祈りや瞑想が自然になります。
藤田
仏教でも似たようなところがありまして。坐禅というと皆さん、足が痛いとか、動きたいのを我慢して坐るとか、苦行的なイメージで捉えている方が多いです。
〝苦しまなきゃ手に入らない、楽していいものが得られるわけがない〟みたいな風潮が日本の文化にはあります。そういう頑なな信念みたいなものがあり、修行にしても、苦しいほど得られるものが大きいだろうという期待のもとに、我慢大会のようになっていることが多いわけです。でも、それは違うんじゃないかと。
僕自身、かつてそういうモードでやっていたんですけど、道元さんの教えによると、「坐禅とは安楽の法門だ」と言います。
楽しさへの入り口という意味ですが、自分がやっていたのはそれと全く反対のことだったんですね。多くの場合、“いずれそうなるだろう”“努力が足りないからもっと努力しろ”と考えられがちですが、それだとどこに安楽があるのか? ということです。
もちろん、わがまま、好き放題ではない。かといって、サディスティックな我慢大会でもない。ブッダが「中道」と言われたように、その中道を見つけることなんでしょう。
人生もそうだと思います。快楽追求でもなく、好き勝手でもなく。それらはいずれ飽きてしまいますし、かといって自分を責め苛む、ゴリゴリの苦行至上主義でもダメで、第三の道というのを見つけないといけない。
「自分の道を見つける」というのは、二つのどちらでもない行き詰まらない道を、自分の置かれた場所から見つけることだと思います。