みなさん、こんにちは。
『バタ足ノンデュアリティ』『ノンデュアリティって、心のお話じゃないんですよ』(ナチュラルスピリット)をはじめ、ノンデュアリティについて語っています、金森将です。
今回は、前回の最後に触れました、「自我」がどうしたこうしたというお話をしたいと思います。そして、これと一緒によく出てくる「分離」がどうしたこうしたというお話も、ついでに取り上げさせていただきますね。

このふたつ、皆さんが大好き(?)な言葉なんですね(^ - ^)
けれども、これにとらわれることで、多くの方が足踏み状態になってしまっているように感じます。

自我がどうのこうのは、こういうこと

まず「自我」についてですが、結論を先に言いますと、そういうものは「ない」んです。
なんだか難しそうな名前がついて一人歩きしていますけれど、どうでもいい“ただの思考”に「自我」などという名前がついているだけなんです。

よく持ち出される「自我」とか「エゴ」といったものは、何か特別なものなどではなくて、ポコッと湧き出てくる思考のひとつにすぎません。「ああ、おなかが減ったなあ」という思考と何ら変わりはないんです。

「ああ、おなかが減ったなあ」は、単に「ああ、おなかが減ったなあ」であり、名前のないただの思考です。
「自我」などと言われるものだって、同じように名前のないただの思考なんです。

それなのに、ある種の特定の傾向を持った思考にだけ、「自我」などという大そうな名前がつけられて、格上げされたんですね。
川向こうの「八っつぁん」だったおっちゃんが、「柳生(やぎゅう)八兵衛」などという名前をつけられたとたん、まわりから一目置かれるようになりました、みたいなものです。
中身は「八っつぁん」に変わりありません(^ - ^)

つまり、頭の中に、「自我」というラベルを貼った収納ボックスを作って、ポコッと現れたどうでもいい思考を、「これは自我である」と判断して、放り込んでいるだけなんですね。
「思考」で遊んでいるだけです。

「事実」をきちんと見ていけば、私たちが生きている様子の中には、「自我」などというものは、どこにもないことがわかります。
そこに気づいてください。それだけでも、だいぶスッキリしますから。

一応、言っておきますが、「自我」なるものは、心理学や哲学などの学問の中にはあります。それを否定しているのではありませんよ。
ですが、それをノンデュアリティのお勉強の中に持ち込んで、わざわざ話をややこしくしないでね、と言っているだけですからね、念のため。

分離がどうのこうのは、こういうこと

次に、「分離」がどうしたこうした、のお話です。これも「自我」と同じように、本当によく使われる表現ですよね。
結論から言いますと、私たちが「全体/静寂/根源」から「分離する」などということは、絶対にあり得ません。どうやったって、できません。

モノが見えていること、音が聞こえること、匂いがすること、感じること、これ自体がもう「全体/静寂/根源」とぴったり一致していることなんです。
五感によって現れたすべてが、「全体/静寂/根源」とつながっている紛れもない証しなんです。ですから、私たちが「分離」をするなどということはできないんです。

要するに、「分離している」と言われるのは、実際に分離しているのではなくて、「分離している」と思い込んでいるだけだということです。
そして、「自分は分離しているから苦しいのだ」と決めつけ、思い込みをさらに強めてしまっているんですね。

実際には何も起きておらず、「自分は分離している」という「思考」がただ湧き上がっているだけで、放っておけばいいものなのに、それをまともにとらえて相手にしてしまっているんです。
思考と遊んでいるんです。
実際には、「分離」などということはあり得ないことなんです。

ここでひとつ、大事なことがあります。
ちょっとわかりにくいかとは思いますが、そもそも「自分は分離している」という思考が湧き上がっていることに「気づいている」こと自体が、「全体」とぴったり一致している証拠でもあるんですよ(^ - ^)

ですから、言ってしまえば、本来、そこに揺るぎない幸福を感じるはずなんです。「分離」をしているから、それが見えないのではなくて、「分離をしていると思い込んでいる思考」がそれを見えなくさせているだけなんです。

先にも書きましたが、「分離」をする張本人と思われている「自我」なるものがないわけですから、「分離」をするとかしないとか以前のお話なのよ、という言い方もできます。

分離しているという実感なんて、あるわけない

「分離を感じている」という人が私のところにお話をしにいらっしゃるとき、私はこんなふうにお聞きしています。

分離をしているという“実感”が本当にあるんですか?
それは、どんな感覚なのでしょうか?

皆さん、「はっきりとした実感みたいなものはない」とおっしゃいます。
そうなんです、ないはずなんです。「思考(知識)」で遊んでいるだけなんですから。

「知識」で自分を覆ったままでは何も見えてきません。
「知識」に向き合うのではなくて、自分の「感覚」に正直に向き合ってください。知るべきは、それだけです。

肩の力を抜いて、もっと自分の感覚を信じてください。
そうすれば、やがて、これ以上ないほどスッキリとした自分の生きている本当の様子が、見えてきます。

私たちの生きている様子は、あれこれ考える隙などないくらい、本当にスッキリしているんです。
そこには、“ただ、今この瞬間の様子があるだけ”であり、「自我」とか「分離」などというものはどこにもないはずなんです。

「ないもの」をわざわざ取りあげて迷ったり、悩んだりするのはやめにしましょう。「考え」の中に“答え”はありませんよ。
それでは、また。

 

金森将
かなもりしょう/東京都練馬区出身。30歳を過ぎて願望実現にはまり、40歳を過ぎてケーキ店を持つ。50歳を過ぎて生き方に行き詰まり、あらゆる願望を投げ捨てたある日起きた突然の空白。その後、波のように押し寄せる“気づき”の中身を書きはじめたブログが人気となる。その8ヵ月後の2020年1月、『バタ足ノンデュアリティ』(ナチュラルスピリット)が発売されると、「わかりやすい」「今までにない」と多くの声を集める。ケーキ店の仕事をしつつ、セッションや講演をスタートさせるなど、ノンデュアリティライター、スピーカーとしての活動の幅を広げている。世田谷在住。愛妻家。元サーファー。
https://kanasho.amebaownd.com/

『ノンデュアリティって、心のお話じゃないんですよ!』
金森将著/ナチュラルスピリット

 

『バタ足ノンデュアリティ』
金森将著/ナチュラルスピリット

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