書籍『 “それ”は在る』(ナチュラルスピリット)の大ブレイクを皮切りに、意識探求にまつわる 書籍や情報を次々と発信しているヘルメス・J・シャンブさん。
この連載「気づきの小説シリーズ」も毎回、大好評! 今回は、趣向を変えて、アイデンティティにまつわるをお話を届けてくださいました。
※2冊目の著書『道化師の石(ラピス)』も小説仕立てで、独自の世界観を伝えています。
苦悩と恐怖を一切終焉させるのための書!
『知るべき知識の全て I 』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット
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アイデンティティに関する些細な考察《前編》
その昔、チベットの大聖者であるミラレパの言葉を何かの本で読み、「家族とは悪魔である」というような文面を見て、「そうだ、間違いない」と彼は思った。
けれども、それはミラレパが意図していたものとはかけ離れていた。彼は、ただ家族に対して憎しみを持っていただけだった。
ミラレパが意図していたのは、例えばイエスに対して民衆の一人が「あいつは救世主なんかじゃない、俺はあいつがナザレの大工の息子だということを知っている」と言ったこと、その出来事やその意味合いと同じことである。
個人のアイデンティティを支える環境こそ、誘惑であり、可能な限り、避けなければならない。もしかすれば、それが出家の始まりだったかもしれないし、また同時に、昔は多くの方々が旅をして回った。
同じ土地、その場所に留まってはいけない、仲良くなるなんて・・・それは危険だ、と教えられていた。もちろん、一人で洞窟なんかに暮らしている場合は除いてだが。
現在、人は知らず知らずのうちに、あるいは半強制的に、このような状況に置かれている。そうすることによって、「私とは何か?」という無意識の最も重要な探求が、自然と加速するのである。
「どうして私がこんな状況に?」とか、「なんでこんな環境にいなければいけないの?」と思うかもしれないが、それが神のはからいであると受け入れ、真摯に向き合うことである。
そしてまた、もしも抵抗したり反抗するならば、問題あるいは災難は、さらに大きくなってしまうことだろう。
自分という個人、とある国の、とある土地の、何らかの名前を付与された自分。両親の名前、兄弟姉妹の名前、それらの名前に囚われ、自分は〇〇だ、と思い込んでいる束縛(=信念)を自らの手で解かなければならない。
救世主は地元では愛されない、というのは、こういうことだ。
誰でも、あなたの名前を知っており、あなたがどのような顔の、どのような身なりをした、どのような人物かをそれぞれイメージとして持っている。
その中の誰かは、このように言うだろう、「君がまだこんなに小さかった頃から、ずっと知っているよ、君は〇〇なんだ」と。
そして、あなたもまた、「私の名前は〇〇で、私は現在このような自分である」という自分像を疑いもなく大切に抱えている。
「いずれ、私は△△になろうと思っている」という理想像もまた同時に保管して、それゆえに発生する理想と現実とのギャップ、その矛盾と葛藤の波にさらわれ、溺れそうになってしまうこともしばしばかもしれない。
さて、個人というアイデンティティが、いったいどれだけ自分を平安にするのだろう? いったい、どれだけ自分を幸福にするのか考えたことがあるだろうか?
そもそも、自分を守るために、アイデンティティを必死に構築してきた、あるいは「している」のではないか?
アイデンティティとは、様々な要素、部品で構成された建築物である。これをいわゆる「偶像」と呼んでいるのである。
しかしながら、偶像を崇拝すること、また、壁を作って守ることは平安をもたらすことにはならず、“常に怯える”という心理状態を保持することになってしまう。
だからこそ、必死に新しいアイデンティティを再構築しなければならない、というサイクルを繰り返すことになる。
「私は、常に何者か(偶像)でなければならない!」と。
つまり、その時の心の動きとは単に「私はどうしたら真に満足する(安心していられる)のだろうか?」と思案し続けているだけに過ぎないのである。
それは不安や心配、すなわち、恐怖を保持しているからに他ならない。
「私とは何なのか?」この問いに出会うのは、「どうしたら満足するのだろうか?」という探求が進むにつれて、自然と目前に現れてくる恩寵なのだ。
そうして、人は「個人というアイデンティティとは何か?」という問いに対しても、考えざるを得ない状況に置かれることになる。
それはやがて、「心を理解する」という瞑想へと進展することだろう。
自分が満足するために、何らかの形あるいは壁(所有物も含む)を形成するのだが、形とはいつでも破壊されるものである。
武道やスポーツでも何でもそうだ。基本的な形、スタイルを学び、自らそれを破壊することで、自由自在の境地が得られることになる。
ルールがあるものを破壊するのは簡単だが、ルールがないものを破壊することはできない。概念が存在しない、捉えどころがないからである。
自由とは、破壊できない境地をも意味している。
周囲から「君は、××のような人間だ」と言われたり、思われたりすることに対して、「そうです」と肯定したり、「いえ、私はそうではありません」と否定したり、それがどちらであったとしても、それが何の役に立つというのか?
認められる(=自分のイメージが通る)とうれしくなり、高揚し、快楽に溺れ、否定される(思い通りにいかない)と落ち込み、自己嫌悪や憎悪、相手に対しての不満や攻撃心を抱いたりする。
それらの決まりきった心の動きを繰り返して、いったい何になるというのか?
「私は、〇〇のような人間です」というアイデンティティが、あなたに平安や幸福をもたらすのだろうか?
「私はポジティブです」という思いが、あなたを幸福にするのではないし、「私はネガティブです」という思いが、あなたを不幸にするのでもない。
実際、ポジティブやネガティブの真の意味とは、言うならば“光”自体の有無の問題であって、そこには、アイデンティティは関与していないのだ。そう、まったく無関係なのである。
だから、「私はポジティブで、前向きで、肯定的で、だから自分のやりたいことをやって楽しむ」という人が、ポジティブだというわけではない。
むしろ、それは不安定さ、グレー状態の表れでしかない。なぜなら、真のポジティブとは、平安と至福そのもの=光そのものを意味するからである。
そして、そこには原因や理由が存在していない。なぜなら、ただ光り続けているだけだからである。
つまり、「私は自分を満たすために、やりたいことをやる」というのは、ネガティブの影響を受けているに過ぎないのだ。
そしてそれは、恐怖の影響だということを明らかにしなければならない。
同時に、その場合には必ず「私は個人だ」というアイデンティティがあり、というのは、恐怖とは必ず個人に依存するものだからである。
すなわち、分離があるなら、明暗、共に存在することになるだろう。
あまりに光が強すぎると、あるいは光だけが存在するなら、映画を見ることができない。光しか見えないからである。
ゆえに、現象を見るためには、明暗が共に存在していなければならない。つまり、グレー状態である。
その曖昧さが、あらゆる不安定さそのものなのだ。光だけならば、闇は存在できない。
それゆえ、光と闇は正反対のもの、または同等の力を持っているというわけではなく、光だけが力なのである。闇が光を消すことができないように。
光=愛に対極するものは存在しない。光=愛とは、完全に独立した実在だからである。
愛には「愛さなければいけない」という文字は含まれていない。そのセリフは架空のものだ。
愛には、「愛」という言葉の意味しか含まれておらず、「愛している」は含まれているが、「愛さない」は含まれていない。
なぜなら、前述したように、愛は完全に独立して、ゆえにたった一つの在り方しか保持していないからである。光が、闇を含有することがあり得ないように。
ヘルメス・J・シャンブ
1975年生まれ。30代前半、挫折と苦悩を転機に、導かれるように真理探求の道に入る。さまざまな教えを学び、寺で修業し、巡礼の旅に出るが、最終的に「全ては私の中に在る」と得心、悟入する。数回に分けて体験した目覚めにより、ワンネス(一つであること)を認識し、数々の教えの統合作業に入る。「在る」という教えは、これまでの師たちの伝統的な教えであるため、師たちの名前を借りて「ヘルメス・J・シャンブ」と名乗り、初著作『“それ”は在る』を執筆。 その後『道化師の石(ラピス)』『ヘルメス・ギーター』、独自の世界観を小説で表現した『プルートに抱かれて』などを刊行。現在は、ナチュラルスピリットの個人セッションなどで、探求者たちに教えを伝えている。
https://twitter.com/hermes_j_s
https://note.com/hermesjs
『プルートに抱かれて』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット
『へルメス・ギーター』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット
『道化師の石(ラピス) BOX入り1巻2巻セット』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット
『 “それ”は在る』
ヘルメス・J・シャンブ著/ナチュラルスピリット