左脳の言語中枢が低下して思考が静かになったとき、右脳が活性化を始め日常的な意識の自我が消滅します。その状態を、あらゆる苦しみを離れた永遠の安らぎの境地「涅槃(ニルヴァーナ)」と呼びます。
『列子(れっし)』に「忘坐(ぼうざ)」という話が出てきます。
宋の陽里という所に華子という人がいました。華子は「忘れてしまう病」にかかりました。道を歩いては歩いていることを忘れ、部屋で座っていても座っていることすら忘れてしまいました。先のことは考えられず、過去のことを憶えていられませんでした。華子の妻子は彼のことを心配して医者、占い師、祈祷師とあらゆる手を尽くしましたが治りませんでした。
途方に暮れていると、魯(ろ)国の学者が華子の病を治せると断言したので治療を乞いました。「ただし、この方法は門外不出の秘法なので、決して他の者に見せるわけにはいかぬ」と言い残して華子と学者の二人きりで七日間家に籠もりました。
果たして七日後、華子の忘れる病は完治しました。喜んだ家族は魯の学者に財産の半分を差し出しました。
ところが、元に戻った華子は、急に怒り出し、妻を追い出し息子を殴りつけ、病を治してくれた学者に矛(ほこ)を持って追い回し始めました。訳も分からないままやっとの思いで華子を縛り付けて、なぜ怒るのかと問いただすと華子は恨めしげにこう言いました。
「俺が病にかかっていたとき、天地の存在を忘れるくらい心が落ち着いていた。ところが病が治った途端、過去数十年の生死や損得、好き嫌い、喜怒哀楽の感情が一気に吹き出して、その記憶に飲み込まれそうになった。これから先の俺は死の恐怖と、悪しき記憶に乱されながら生きていくことになってしまった。忘却という 一瞬の心の安らぎを得られない境遇を嘆き、怨んであのような真似をしたのだ」。
孔子の弟子の子貢(しこう)はこの話を聞いて不思議に思い、孔子に話してみると孔子は「お前には理解できないだろう」と言いました。
『列子』の忘坐の話は、左脳優位の話です。
人間には右脳と左脳という二つの意識があります。左脳には言語、計算、分類、区別、分析、 判断、記憶など様々な機能があり、社会の常識や仕組みなどを理解して、過去の記憶の中から情報を取り出して、分析、整理します。未来を予測して身を守る ための行動へと反映しています。
しかし、他人から低い評価を受けたり、否定されると左脳の言語中枢は自分の都合の良い思い込みの物語を作って自分を守ろうとします。自我は過去の記憶で成り立っているのです。
左脳は過去の記憶の中から情報を取り出して絶え間なくおしゃべりを続けるので、今ここに安らぐことができません。左脳優位が行き過ぎると「華子」のように恐怖や不安、怒りなどのストレスにさいなまれます。
左脳の機能が低下する脳卒中に襲われた脳科学者がいます。
脳科学者のジル・ボルト・テイラー博士は自宅で脳の血管が破裂して歩くことができず、話すことができず、読むことができず、書くこともできず、また自分の人生の出来事を思い出すことができなくなってしまいました。
そんな危機的な状態の時に、不思議な体験をしました。自分の身体の感覚と空間の境界が消え、無限のエネルギーと一体となったのです。
自分自身を固体として認識できず、自分が溶けたエネルギーの流動体として認識していました。過去・現在・未来という直線的に過ぎ去る時間がなくなり、永遠の今だけがありました。
何事もそんなに急いでする必要はないと感じるようになりました。自分が巨大になり広がっていくのを感じていました。ストレスがすべて消えて静かで平和で解放された、至上の幸福、やすらぎに包まれていました。その体験を涅槃(ニルヴァーナ)と表現しています。
左脳の言語中枢の活動が減少して頭の中のおしゃべりが鎮まり、右脳が活性化すると至福に入るのです。
日常生活の心の状態は、すでに終わった過去にこだわっています。未来を夢想したり良くない事を想像して、不安になったりしています。思考は今ここにいられません。
今ここに在るとき、不安や恐怖は存在できません。今この瞬間から外れて過去の思いに行ったり、未来を想像している時に心は不安や恐怖に襲われます。
思考に同化することをやめて、今この瞬間に意識を向けると、思考や感情に覆われていない本当の自分が現れます。今まで真実と思い込んでいた世界は、思考が作り上げた夢だった事に気がつきます。
著書『覚醒の真実』『よみがえる女神』(ともにナチュラルスピリット刊)、共作DVD『十三姫物語』(ホツマ出版)。
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