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次元を超えて隣の地球へ
『人間は宇宙船だ』
松村潔著/ナチュラルスピリット
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最近、7つのコスモスを「7つの次元」という言い方に変えて説明したりもしている。そのほうがわかりやすい面もあるし、また反対に、わかりにくくなることもある。
で、1次元が線で、2次元が面、3次元が立体ということであるが、人間はこの三次元に生きているのかというと、あまりそういう感じはしない。昔、小野満麿氏のサイトをちらっと見た時、人間は2.5次元だということが書かれていた記憶がある。だいたいそんなものではないか。
わたしは前から、何かと立方体のイメージを使うことが多く、この時には、“6方向圧力の均衡が必要だ”という言い方をする。
トム・ケニオンは、“立方体の中心に行くと、そこでアルクトゥルスと通信できる”と言うが、だいたい人間は、6方向圧力の均衡点としての立方体の中心に行くことはできておらず、しっかり地面に押し付けられており、前後左右の均衡はできても、上下の均衡は手に入らない。
なので、立方体の中心はどんなものか知らない。生きる実感は、6方向のどこかの壁にあたっている実感で確認しており、どこの壁にも押し付けられない中空の位置に行くと、かなりの不安感を感じる。
つまり、「拠り所がない」状態。
たとえば、布団に横たわった時、ふかふかの布団の感触が気持ちいいと感じる。そこに安心感を感じるかもしれない。立方体の中心点は、どこにも触れていないので、具体的な感触によって何か感じたり考えたりする人間は、どう判断していいのかとまどう、というより、もっと大げさに、自分が生きていいのかどうかさえ疑問に感じ始める。
それに、3次元をトータルに獲得できているように見えないのは、そもそも背後を見ることもできないし、ビルの裏に何があるかも、そこまで歩いて行かないとわからないということでも判明する。
つまり、3次元のどこかに縛り付けられていて、あたかも3次元のどこかの部品のようで、3次元を全体として対象化できないのだ。
3次元は、2次元の面には一体化しておらず、面を対象化できる視点を、2次元の平面から離れた場所に置いている。つまり、同じ場所ではないところに、もうひとつの座標があると、手前の次元については認識できるということなのだ。
3次元立体のどこかに縛られている人間は、3次元を対象化できないし、客観視できない。
こうなると、3次元をはっきりと意識的に認識するためには、次の4次元に行かなくてはならないということになる。4次元は、3次元プラス「時間」だと言われている。
三次元のどこにもない、第四の時間の座標に自分を置くと、三次元を突き放して見ることができる。
時間というのは、捉えどころがない、というわけでもない。
時間はよくわからないというのは、自分の意識が時間と自己同一化しており、ともに運命共同体になっており、時間を突き放して見ることができないからだ。
この時間を対象化できるのは、理屈としては、時間から離れた座標を持つ5次元だ。そこから見ると、時間は手に取るようにはっきりしたものであり、さらには、時間を操ることもできるようになる。時間と自分が一体化している人には、時間とは決していじりまわすことができないというのが鉄則だが、5次元から見ると、そうでもないのだ。
たいていの場合、時間は直線的であり、さらには過去から未来へ一方向的に進むものであると決まり切った考え方をするが、それは時間を対象化できないからであり、5次元存在は、あたかも時間を空間のようにして歩くことができるという点からすると、これまでとは反対方向の、未来から過去に進むこともできれば、また、途中で湾曲させたりもできるし、早めたり遅くしたりもできる。
太古の時代、時間は円環型だったと言われる。こんにち的な人間は、死んだらその後何もないと考えるが、これは直線型時間であり、そこには始まりと終わりがあるが、円環型時間には、始めと終わりがない。
そのかわり、適切な場所の節目はあり、この円環の節目は比較的任意に設定できる。つまり、“いくつかの点を持つ幾何図形”と考えることができるのだ。その節目が、小さな終わりであり、始まりであり、折り返し点なのだ。
時間とは、意識の変化とか、経過というものと考えることができる。同じ状態がずっと続くのでなく、連続的に変化していく。
そもそも時間は決まりきった速度を持っていない。
が、地球に住んでいる人は、地球が提供するところの時間リズム、空間秩序に依存しているので、時間は同じ速度で進むものだと思い込んでいる。朝が来て、昼が来て、そして夕方になる。何もしないでも、この時間は自動的に進んでくれるので、いつまにか時間については失念するようになった。
でも、実際には、時間とは自分で進めないと、動いてくれないものなのだ。
つまり、時間とは生命作用のようなものなのだが、地球に依存していると、地球が進めてくれる時間に頼りきってしまい、自分で何かしなくてもいいと考えてしまうのだ。地球に依存すると、とても楽とも言えるが、そのかわり、自分で時間を動かすことができなくなる。
これが、たとえば、「自分の人生は変えられない」とか、「運命は変えられない」という事態を生む。
頑張ったけど、結局うまくいかなかったというのは、地球から時間を奪還できず、最後は地球時間にまた飲み込まれてしまったのだ。
きっと、“休む”というのが良くないかもしれない。しばらく頑張った。なので、その後、休憩しよう。この時、地球時間に、また占有された。
時間と空間は密接な関わり合いがあり、呼応関係にもあるので、時間が変化すると、それとともに空間も変化する。
これをイメージするのにわかりやすい図形として、正八胞体(オクタコロン)があると思うが、トム・ケニオンの言う立方体を、複数の立方体が重なっているマトリョーシカのようにみなしてみよう。
わたしは特定のコスモスを、いつもこの箱、立方体として認識することが多い。
立方体の中心に近づくにつれて、より小さな立方体があり、アルクトゥルスの立方体はこの数多くの立方体のどこかにある。もっと奥の小さな立方体に近づくと、アルクトゥルスを突き抜けて、違う宇宙になる。たとえば、アルクトゥルスの奥に、アンドロメダ銀河M31があったりする。
で、時間とは空間の変化を伴うという点で、この一番外側の大きな立方体から、奥の小さな立方体に進んでいくのは、けっして自動的ではない、自発的に動かす時間によってである。
それにつれて空間は変化して、サイズの違う立方体に入り込み、この立方体の大小の差というものが相対化されているために、奥の小さな立方体が、その外にある大きな立方体を凌駕して、腹の中に飲み込んでしまうというような変化を起こす。
つまり、時間の自由性は、空間の規則的な秩序というものを変形させてしまうので、ありていにいうと「なんでもあり」なのだ。空間の独立的規則はなく、時間次第でどのようにも変化する。
この宇宙は、3次元と1次元時間からなる4次元時空であるというのが、ミンコフスキー時空の定義だが、この時には、時間は一次元(線的)なので、決まった動きしかしておらず、進む方向も線的なものなので、この場合には、空間の変化というのも連続的で、単調な「予測可能な」変化をすると思う。
時間から、意識や生命作用を引きはがして、自分を時間と一蓮托生にしないようにすると、生命はこの規則的な時間縛りから解放され、キャンバスに自由な絵を描くように時間を動かすことができる。空間もぐにゃぐにゃする。
こうした自由性は、基本的には時間を対象化する座標を持っている5次元意識以上の共通した特徴だと思うが、時間と空間の自由セットがどこかのコスモスに干渉することを、わたしは「時空のひずみ」と名づけている。
で、わたしが原稿を書いている時には、頻繁に、空間にひずみが走り、ここで、“白い光、あるいは透明な光の存在”がやってくる。
最近、ムルジム(*)のことを書いていると、久しぶりに強烈なひずみが発生し、ムルジムとわたしの間がかなり近いことを実感した。
*おおいぬ座の前足にあたる恒星。シリウスよりも先に昇る。
つまり、決まり切った時間秩序、空間秩序が支配する世界には、決して入ってこないはずの高い次元の存在が、この時空のルールをいとも簡単に捻じ曲げて、「聖なる侵入」をしているのだ。
だいたい書いている内容と同一のものであり、ユクテスワ(*)のことを書いている時も、3回くらいこの割り込みがあり、つまりこれはユクテスワなのだ。
*スワミ・スリ・ユクテスワ・ギリ(1855年5月10日〜1936年3月9日)。サタヤナンダ・ギリとパラマハンサ・ヨガナンダの師にあたる。
死んだはずのユクテスワが、そして遠く離れたユクテスワがここに出現するはずがない、という道理は、直線的で一方向的時間の中で醸造されている。
こうするとこうなり、それからこうなるという摂理、道理は、だいたい5次元の自由に時間を動かす領域では通用しない。
で、日ごとに、この時空のひずみが拡大しているので、5次元存在との交流がますます頻繁になっているということでもあるのだが、7つのコスモスでは、この5次元は、マクロコスモスに対応し、つまり「恒星意識」のことを示している。
ムルジムは恒星であり、4次元秩序に支配を受けていない。
トム・ケニオンの、“立方体の中心に行くと、アルクトゥルスに通じる”というのは、最終的な行き先がアルクトゥルスではなく、その手前の立方体、その奥の立方体などを考えると、多数の恒星が重なっている。
どの層に行っても、その空間的な現れ方は変わってしまうので、それぞれ異なる世界が見えてくるということだ。
この時空に割り込んできた時には、ここの時空の割れ目として認識されるのだが、たとえばムルジムの持つ時空パターンに同調すれば、この世界に映し出された割れ目でなく、ちゃんとした秩序のある宇宙がそこにあるということなのだ。
4次元においての第4の座標が時間であり、5次元においては、この時間と自分を引き離して、時間を対象化し、自由に動かすということでは、5次元においての第5の座標をどう名づけるといいのか迷うが、仮にこれを「生命意図」と考えてもいいかもしれない。
もちろん、マクロコスモスにおいての各々恒星は、ロゴス、イデアを示すものであり、これを生命意図としてもいいのだ。
それは4次元空間である「デュートロコスモス(太陽系)」に降りて、このロゴスを、感覚的に広げていく。デュートロコスモスとは、「法則12の世界」で、これは12感覚と見ても良くて、色、形、音、質量感などに広がっていくのだ。
5次元マクロコスモスでは、この感覚的展開のもとになる意図、ロゴス、イデアは比較的安定しているが、この上の第6次元「アヨコスモス」では、溶けるバターのようにイデアの形が失われていく。
アヨコスモスを、わたしはサンキヤ哲学の言葉を借りて、プルシャとプラクリティと説明しているが、これは、見るものと見られるものの関係で、プルシャがプラクリティを観照すると、プラクリティの3つのグナの均衡が崩れると言われている。
見るものと見られるものの関係は、中国の「陰陽魚」の白い魚と黒い魚のようなもので、見るものが観照すると、それにあわせて見られるものは変形する。
すると、見るものは、見られるものとの「関係性」によって成り立っている面もあるので、見るものも変わってしまう。どこまで行っても、この見るものと見られるものの関係には固定というものがないのが、アヨコスモスの特徴だ。わたしはこれを「砂地獄」と言うこともある。
第6次元においては、世界のすべての種子は、あてにならないものになっていくが、マクロコスモスは、アヨコスモスのプルシャが、プラクリティを観照して、プラクリティの不均衡が生成される都度、その不均衡パターンを固定(記録)するので、最後に何もなくなりました、とはならない。この記録が、各々恒星のロゴスというふうに考えるといい。
太陽系には、複数の惑星があり、この各々惑星は、特有の時空秩序を持っている。
以前、とても疲れていた時、ヘミシンクの会で、この疲労を回復するにはどうすればいいのか、聞いてみた。すると、「金星からチャージすればいいのではないか」という声が聞こえた。
そして、金星からたくさんの「へ」の字型の虫のようなものが落ちてきた。
いま思うに、疲れるというのは、地球時間に占有されて、地球とは違うリズムの自分特有の時間が消耗していることでもある。
疲れると、人は何もしなくなる。つまり、地球に横たわってじっとするようになるのだ。動作もだんだん遅くなる。
でも、金星は、地球に近いところにある惑星だが、地球とは違う時間リズム(そして異なる空間性)を持っており、これはわたしの時間を、地球から浮かす効果がある。
単に地球時間に支配されつつある自分に対して、金星時間が押し寄せてきただけなので、自分の時間を地球から奪還するわけではないが、地球にべたっと張り付いた状態から一時的に少しだけ「空中浮揚」することができるのでは。
立方体の中心にまで行かないが、しかし、地球の壁から少し離れる。
金星についてもっとたくさん書くと、しつこくなるので、この程度の説明で終わったほうがいいと思うが、でも、マクロコスモスの恒星は、自分が降りるのに適した惑星を物色している。
そして自分のロゴス、生命意図が反映されやすい時空パターンを持つ惑星に接触する。
あまり適しているとは言えない惑星に降りる時には、やはりその惑星の整った時空秩序に、時空のゆがみを作り出すのではないかと思う。
ムルジムにとって地球の鍵穴は合うのかというと、あまり合っていないと思う。わたしのところにやってきたムルジムは、あきらかに強引な時空のひずみを作っており、かなりヒヤッとしました。
松村潔
まつむらきよし/1953年生まれ。占星術、タロットカード、十牛図、エニアグラム、ライフシンボルなど、 いくつかの手法を活用して講座・研究会などを開催。アカシックリーディング等でも、タロットカードや占星術を併用すると安定性が高いという考えから、ツールの複合性を提案している。『わたしの運命がわかる地球星座占い』(角川書店)、『ディグリー占星術』『三次元占星術』(以上、説話社)、『土星占星術講座』(技術評論社)など著書多数。
http://www.tora.ne.jp/
『夢を使って宇宙に飛び出そう』
存在の4つのフェイズを縦横無尽に探究する
松村潔著/ナチュラルスピリット
『分身トゥルパをつくって次元を超える』
秘教の体系と神秘体験から見出した不死の身体とは
松村潔著/ナチュラルスピリット

