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次元を超えて隣の地球へ
『人間は宇宙船だ』
松村潔著/ナチュラルスピリット
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最近新しいテレビのドラマの「ドラゴン桜」の番宣で、平手友梨奈が出演しているのを見て、欅坂46でのパフォーマンスで倒れた出来事などを思い出した。
どういう理由でかは知らないが、もし「舞踏で気絶する」というような事態であるのならば、それは舞踏の本来の意図を発揮したものであると言える。
今日の時代の常識としては、人間はこの物質世界にのみ生きていて、死後は存在しなくなると思われている。これは宇宙の階層性について知識を持たず、世界とはこの世界だけであるという「閉鎖された宇宙観」が原因だ。
どこにも逃げ場がない。考えれば考えるほど、これは息苦しい。いったい誰がこんなことを画策した?
ところが古代とか、たとえばヘレニズム時代の宇宙観にしても、同心円の重なったたまねぎ型宇宙を考えていたし、7つのコスモス論というのも、比較的自然に受け入れられていた。
こういう場合、人間も、自分たちよりもひとつ上のコスモスに行くということを、生きている間に試みようとする。
人間が住んでいる世界はトリトコスモス。その上は惑星界のメゾコスモス。メゾコスモスの「上座」は極度に洗練された全惑星意識、すなわちエーテル界がある。
さらにその上に太陽のデュートロコスモスなどがあるので、そこに移動したい。
このために無数の方法があったと思われる。つまり「変性意識」に入る方法ということだが、舞踏もそうしたツールのうちのひとつだ。
わたしが思うに、できるかぎり単調な舞踏が理想的だと思うが、それは日常自我(新脳?)が退屈して寝てしまうからだ。
「こんな面白くないものを見てどうする。こんな暇があったら寝る。明日も忙しいんだから」と言うのだ。
物質世界重視の西欧文明では、芸能も音楽もバラエティがあって退屈させないように作る。これは、変性意識に入るための芸能という観点からすると、失敗作で、いつまでたっても変性意識に入らない。
能を見ていると、どろどろに眠くなるし、観客を見回しても、半分寝ているような感じに見えるので、これは正しい芸能だ。
このような古代的芸能の中では、人間の中身が、このコスモスから、上のコスモスに抜け出す。わたしの個人的な体験では、演じている側だけでなく、見ている側もそうなるので、すごい誘惑力だ。
でもいつの時代からか知らないが、「この世界はひとつ」「答はひとつ」という考えにこり固まってからは、舞踏中にトランス状態になって、身体を駆動することができなくなったり、気絶したりするのは、たんにそこで止まっただけの失態とみなされる。
人が死んでも、それはただ死んだだけで、未来はない。それは単なる喪失。
が、多層コスモスの考えであれば、死んだとはコスモスを移動したと考えるのだ。むしろ死の時の前に、コスモス移動の準備をするために、さまざまなメソッド、芸能が作られたのだと考えてもいい。
なので、気絶した人を見ると、その後、どういう体験だったか、何かメッセージを持ち帰ってきたかを聞かれる。
ちなみに上位コスモスに移動して、そこでメッセージをもらうというのは、実はこのコスモスと上コスモスには落差があり、この落差、差異成分が、この世界に帰ってきた時に、自動的にメッセージになるのだ。
だから上位コスモスに神秘的な存在がいて、それに伝えられたということでなくてもいい。
日本でも、まだ狐憑きが当たり前だった時代には、狐憑きのところに村人が集まり、ひとりずつ人生相談を持ちかけた。そもそもテレビもラジオもないので、狐憑きパフォーマンスも楽しい演芸ともみなされる。
でも、世界はひとつという閉じ込められた世界観では、狐憑きはなんらかの病に過ぎないし、何も持ち帰ってこない。持ち帰ってきても、それに耳を貸さない。
この世界は行き止まりを作っていて、誰もどこにも行ってはいけない。
いまは新コロナ禍で、自宅謹慎をする人が多い。この場合、行動欲求が満たされず、しかも最近は公園まで出禁になるらしいので、多くの人がストレスがたまると言うが、これは今の世界が「閉じ込められたコスモス」になった結果の弊害でもある。
たとえ部屋が六畳でも、階層コスモスを知っている人は、自分の一番得意な方法で上のコスモスに旅する。
なので幽閉によるストレスというのはまったく感じない。むしろ、外界の刺激がないという状況をこれ幸いとばかりに利用するのだ。
昨年の8月に、大腿骨の手術をするために病院に入院していたが、トイレ、シャワーつきの高額の個室(なんと一日24000円)に入っていた。
理由は、大部屋では同室の人たちと話をしなくてはならないと思ったからだ。
誰とも話をしたくない。人間の「横の関係」というのは、上コスモスへの縦移動を必ず妨害する。わたしからすると、それは異常事態なのだ。
しかし、休みなく看護師が訪れてくるので、わたしのいつもの暮らしよりも忙しかった。予告なく入室され、話しかけられると、トランス状態には入れない。
ヘミシンクも持参したが、なかなか使うことはできなかった。こんなに忙しい生活は久しぶり。
マーラーの歌曲のピアノ伴奏をしていたバーンスタインが、感極まって演奏が破綻したと話題になったことがある。演奏者は作品に飲み込まれてしまうと、まず使い物にならない。
演劇も舞踏も同じだと思われるが、これは「世界はひとつ」という考えのもとで作られた姿勢だ。
世界を維持するために、内部は陰陽の二極化をする。これはさまざまな形に応用されていくが、主客という二極化でもいい。
この二極化の位置関係は、固定されていなくてはならない。ピアノ奏者も、自分が演奏していることを対象化して見ている。なので、曲に飲み込まれることなく、冷静に慎重に演奏できる。
これは、演奏者がどこにも飛べないということでもあるのだが。
ひとつの世界は、内部にある陰陽の二極化によって維持されるということは、反対にいうと、違うコスモスに移動するには、いったん、このコスモスの内部の二極化を融合しなくてはならない。
でないと、いつまでもこの世界が本人を捕まえて放さない。
主体と客体の関係は、実に相対的なので、主客が融合すると、主体が見ている世界の像も形が崩れる。客体が変わると、主体も確実に変わるのだ。
その昔、ユリ・ゲラーの能力を調査するために科学者が実験室で、ユリ・ゲラーをじっと凝視していた。この時に、科学者は自分の主体の位置を絶対に揺るがさないと決意して、ユリ・ゲラーを睨みつけていた。
だから、ユリ・ゲラーは何もできなかった。尻尾をつかんで、「走れ」と言っているようなものだ。
変化というのは、見ている者、見られたモノの両方が仲良く一緒に変容することなのだ。
主体と客体の二極化が融合すると、上のコスモスと、このコスモスの間にある「関門」をすり抜けて、上のコスモスに移動する。
この世界が唯一と思っている人は、冷静に対象化して取り組むが、コスモス移動しようとする人は、この主客の分離をわざと台なしにするので、おそらくこの世界に閉じ込められている人からすると、見ていられない。
で、わたしはしばらく自分の原稿で、「光の言葉」ということを話題にしていた。
シュタイナーは、将来人間の喉が生殖器になると言っていた。あいかわらずのぶっ飛び発言だが、これは当時の科学者とか知識人の神経を逆なでするためにわざとやっていたようにも思う。
喉が震えて、声を出す時、エーテル界には子供が生まれる。このためには言葉も、やはり光の言葉である必要があると思う。
現代人は光の言葉を理解できるのか?
タロットカードの22枚は、ヘブライ語の22語に対応しているという説がある。これは正しい見解かというと、わたしは必ずしもそうだと思わない。
ヘブライ語という狭いエリアの言葉に対して、タロットカードはもうちょっと広範囲なものだ。
で、わたしは言葉とは、エーテル体の網目の結び目であると説明してきた。
いわばケーブルタイのようなもので、メンタル体と同一の高次エーテル体では、この言葉が創造の言葉となる。
それは恒星にも対応するのだが、これが光の言葉なのだ。
スプーン曲げで有名になった清田益章君は、結婚式の時に引き出物として、300本のスプーンを念力で曲げたと言っていたが、もっと親切ならば、22種類の曲げ方がみな違うセットを用意しても良かったのでは。
でもこんなことをしていると、本人が死んでしまうかもしれないので、限定3セットとか言えば良かった。
カバラ学者の文字学派(そんなものがあるとしての話だが)は、文字をあやつることで、たとえば紙に書くだけで、身体が痙攣して、法悦に入ると言う。
クロウリは「ツァダイは星にあらず」と言ったが、これはツァダイというヘブライ語に、いままでは17星のカードが割り当てられていたのだが、それは違うと言ったのだ。
で、ツァダイには4皇帝のカードが割り当てられ、17星のカードには「ヘー」という言葉が結び付けられた。
たとえば、ヘーという言葉を発すると、それは17星のカードのように、天空の恒星のいくつかを地上に降ろしてくるという現象が生じるとみなしてもいい。光の言葉は、そんなものだ。
文字学派は、舞踏で昏倒するような危険をことをしなくていい。平手友梨奈のようなことをすると、骨折しかねない。
ノートに文字を書くと、たちまち上コスモスに移動するのだ。ノートはセブンイレブンで買えばいいし、書き味のなめらかなジェットストリームで書けばいい。
ちなみに、リモート・ヴュイングの「イデオグラム」も、この文字に似ている。なぜ、いきなりリモート・ヴュイングの話が出たかというと、リモート・ヴュイング派の一押しのボールペンが、三菱ジェットストリームだということを思い出したからだ。
0.3秒以内に素早く書くには、追従性が高いボールペンが必要で、ひっかかると、すべてが台なしだ。
で、主客の二極化の位置関係が固定されている時、わたしたちはこのコスモスの流儀に従い、文字を見ると、この文字の意味を明確に対象化して、これがどういうことなのかをしっかりと理解する。
バーンスタインはマーラーの歌曲、おそらく「わたしは世界から忘れられた」の伴奏している時に、瞬間歌に飲み込まれた。
この時、もう自分が伴奏していることを冷静に見ることができなくなり、「わたしは世界から忘れられた」と思ったのでは。曲にのめり込むと、この世界では演奏者として食っていけない。
主体と客体の固定的位置関係が崩れて、主客ともども洪水に飲み込まれると、たとえば「迅」という言葉を見ると、最初はこの意味を理解できる。
が、じっと凝視しているうちに、この「迅」を外から見ることができなくなり、「迅」の中に入り込んでしまう。「迅」から世界を見るという主客逆転も起こる。
主体は客体を踏みつけていることができなくなり、「迅」は巨大化し、地球よりも大きくなる(気がしてくる)。
ゲシュタルト崩壊とは、全体性を持った秩序ある構造がわからなくなることだ。それは個々の構成要素がばらばらに切り離され、個別のものに没入することで、全体性のもとに成り立つ意味が失われていく。
それは人間の足場が失われていくことだ。迅速という言葉を短時間見ると、ちゃんと早いですとわかるが、「迅」だけじっと長く見ると、「全体性を持った秩序ある構造」は失われていく。
しかし、この全体性を持った秩序ある構造とは、単にこのコスモスにおいての主客の明確な二項対立的、二極化的な位置関係の固定のもとで作られた「小さな」構図に過ぎない。
そこにこだわる意味が、そうあるわけではない。
いや違った。社会生活を健全に行うには、踏み外してはいけない。
ゲシュタルト崩壊を逆手に利用して、「迅」から、上コスモスに移動してみようということもできるのだ。
カバラ学者は、セブンイレブンで買ったノートに、ジェットストリームで書いた文字に「どハマリ」することで、超越世界に飛ぶ。
「迅」は光の言葉になる。このプロセスは、光の言葉のお迎えが来たので、カバラ学者は、それに「取り上げられて」自分が上昇して行くということだが、この時、精神は上昇しても、身体がこの世界に捕まっているとすると、これは身体が、この世界に「自己同一化」している、つまり重いからだ。
この問題を解決するために、「第一の道」、別名「サドゥの道」として、肉体的な修行をする人がいる。
わたしも一時、マラソンをしていたので、サドゥの道を実践していたのかもしれない。それが原因で、大腿骨が壊れたのだが。
最近若い女性の間で、ヨガが流行しているというのを、よく夕方のニュースで見る。身体を動かすヨガは基本的にサドゥの道であり、極端になると、太陽を直視しようとしたりもする。
これが原因で、いつもサングラスがないと生きていけない状態になったという知り合いもいた。
カバラの文字学派は、身体の訓練をしたほうがいいのかということについては、これは「第三の哲学の道」なので、毎日哲学をして、文字を書いたり読んだりするだけのほうが「清い」。
へたに修行するなと思う。生活保護を利用して、ひきこもりを続けているハムスター君を見て、わたしはピュアだと思う。
出かけたりするな。そんな暇があったら、ボルヘス読もう。
松村潔
まつむらきよし/1953年生まれ。占星術、タロットカード、十牛図、エニアグラム、ライフシンボルなど、 いくつかの手法を活用して講座・研究会などを開催。アカシックリーディング等でも、タロットカードや占星術を併用すると安定性が高いという考えから、ツールの複合性を提案している。『わたしの運命がわかる地球星座占い』(角川書店)、『ディグリー占星術』『三次元占星術』(以上、説話社)、『土星占星術講座』(技術評論社)など著書多数。
http://www.tora.ne.jp/
『夢を使って宇宙に飛び出そう』
存在の4つのフェイズを縦横無尽に探究する
松村潔著/ナチュラルスピリット
『分身トゥルパをつくって次元を超える』
秘教の体系と神秘体験から見出した不死の身体とは
松村潔著/ナチュラルスピリット

