こんにちは。悟りをテーマに活動している、ドルフィニスト篤です。
今回も、私の師匠であるマスター・ゲート氏の教えを交えながら、日常の中で目覚めていくためのポイントを、悟りの観点から綴っていきます。

多くのものを掴んでいると自分が見えにくい

自我は、その習性として、外側の何かに執着し、依存し、囚われ、掴もうとします。
なぜなら、自我は本当の自分を信頼できず、恐怖の中にいるからです。
掴んで執着しても、本当は何も得るものはないのですが、一時的な偽りの安心のためにも、そうせずにはいられないのです。

しかし、自我は自分がそのような状態であることを認めたがらず、まっすぐ自分自身を自覚することが難しいのです。
なぜなら、自分の中の恐怖が原因だったと認めてしまうと、何かのせいにして、逃げることができなくなると考えるからです。

マスター・ゲート氏は、次のようにおっしゃいます。

「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」という言葉があります。
見性して成仏するのに一番大事なのは、「直指人心」だということです。
皆さん、それだけすればいいのですから、どれほど簡単でしょうか。

それでは、「直指人心」とは何でしょうか?
「私」を正確に見よう、ということです。

では、どんな「私」を見ればいいのでしょうか?
皆さんは、まだまだ何かをずっと掴んでいて、それは単なる物質だけではなくて、
考えや感情など、心で多くのものを掴んでいます。

物質は、死んだら持って行くことができず、それを掴んでいるというのも問題なのですが、
まだまだ相変わらず、誰々が憎たらしくて、誰々に会いたくなくて、誰々は面倒くさくて・・・そんな思いを掴んでいます。
なぜ、いまだに皆さんは、相手から影響を受けるのでしょうか?

目の見えない人と目の見える人がぶつかりそうになった時、目の見える人はそれを避けるべきで、
盲(めくら)とぶつかって盲のせいにする、そんな愚かなことをしていたら、どんな自覚をしていることになるのでしょうか?
同じく盲だってことになります・・・。

皆さんは相手を非難することは、実にたやすくします。
「あの人、面倒くさくてたまらない」と言い、「あまりにもストレスを受ける」と言いますが、その話をしていること自体、その人と全く同じ水準にいるのです。

そんな心を、なぜ掴んでいるのでしょうか?
そんな心を掴もうとする不必要な欲心、「私のモノ」を掴もうとすること自体が、皆さんを縛るのです。
縛られた状態で、どうやって自由であることを望めますか?

自由になろうとするなら、誰かが縛りを解いてあげることはできません。
皆さん自身が縛ったのだから、皆さんが解かなければならないのです。
すべての感情的なもの、考えというもの、偏見というもの、判断というもの、先入観というもの、そんなものを放さなければなりません。
そんなもので、自らを縛っているのです。
その縛りに伴って、物質というのは自然についてくるのであり・・・
そのように自分がまだ掴んでいるものがあるのに、どうして自由でいられますか?
自分で放さないといけないのです。

焼けた鉄を掴んでいながら、どうして火傷しないことを望むのでしょうか?
皆さんの考えや判断が、皆さんの感情を傷つけるのです。
それにより、自らが傷つくのです。
焼けた鉄を掴んでいれば、傷つくのは当然でしょう。
なぜ、自ら掴んでいるのに、「熱い!」「火傷した!」と相手のせいにするのでしょうか?

ストレスを受けたということは、傷ついて、熱いものに火傷した、ということです。
そこに水をまいたところでどうにかなるのではないのです。
放してこそ、解決できるのです。

それで最も基本的な「直指人心」というもの、私を正確に見ることが先行されてこそ、悟りも成就するわけです。
そのような心を持ったままで、どうして皆さんは自由で、エゴを抜け出て、大自由を満喫できると考えるのでしょうか?
そんな些細なことにグルグル縛られて、明けても暮れてもストレスを受けて、不平不満で悩みがあって、そして、それらを解決することができないでいます。

感情と考えは、皆さんを合理化させることができません。
それらから自由になるには、「関わらないこと」しかありません。
結局、すべてを受け入れると心を決めた時、それらからストレスを受けなくなります。
それらを包容して受容するしかないのです。

被害者になって傷つくと負のスパイラルが生まれやすい

自我の習性として、ありのままの自分では心もとないので、誰かに認めて欲しくなり、自分の正当性を証明してくれる価値観に拠り所を求めます
それだけ自信が持てず、恐れや不安で一杯なのですが・・・そのことを自覚できません。
ですから、無意識のうちに外側に依存していて、誰かが自分のことを認めてくれなかったり、自分を証明してくれる価値観を否定されたと感じると、依存したいのに拒絶されたと感じて、内側にあった恐れや不安に襲われて、被害者になって傷つきます

うまく隠し通してきたと思っていた不足感に、自分自身が突然、傷つけられるのです。
しかし、ほとんどの場合、傷ついたのは相手のせいだと思い込み、相手に対して怒りや恨み、憎しみを抱きます。そして、自分と同じ傷を相手にも与えたいという復讐心が生まれます。

このように、傷に囚われる時は恐れや不安を抱えていて、傷ついていることを誰かにわかって欲しいし、それが叶わない場合は、誰かの足をひっぱりたい、傷つけたいという気持ちが生まれてしまうのです。

ここではっきりと認めなければいけないことは、ありのままの自分では心もとないので、恐れや不安を抱えて自信が持てないという不足感からすべてのストーリーが始まって、最後もそれを確認することで終わるという事実です。

傷と闘うのではなく傷ついている自分を認める

ありのままの自分では不足だという感覚は、心に傷を負っているということです。
自我は外側に依存し、期待しているために、外側の影響を受けて簡単に傷ついてしまうのです。
しかし、自尊心は、傷を負った惨めな自分を認めたくないので、傷ついていないふりをして、傷を隠そうとしながらも外側の何かで傷を埋めようと、執着して、依存して、掴もうという欲心を持ちます。

傷があると、心は平安ではいられず、あらゆる種類のストレスを作り出してしまうので、心の防御反応として傷を埋めようとしてしまうのです。
しかし、傷が外側の何かで埋まることはなくて、何かをすればするほど逆に傷つき、傷を強化することになります。

私たちが無意識のうちに傷を埋めようとする行為は、不足感から始まっているため、最初から勝算がなく、失敗するようになっています。
傷を隠してうまく生きようとしても、この傷から展開する「幻想のドラマ」から抜け出すことはできないでしょう。

では、どうすればいいかというと、傷と戦うのではなく、自分が傷ついていることを潔く認めてしまうことです。
傷ついているということは、恐れや不安に心が囚われて、自らが傷を掴んで、本当の自分を見失っている状態です。
自分が傷ついていることを逃げずに認める時、恐れや不安と向き合うことになります。すると、逆に傷が幻想だということがわかって、傷から生まれるドラマを終わらせることができるのです。

繰り返しているこうしたドラマを正確に見極めて、ドラマを掴んでいる手を放さない限り、「悟り」はないということです。本当の自分は、それらのドラマから影響を受けることなく、虚空のようにすべてをただ受け入れているのです。
ということは、恐れや不安は幻想であり、傷も幻想だということです。

受け入れたくない自分の心を正確に見れた時、私たちは掴んでいたドラマから真に自由になることができます。

 

 

ドルフィニスト篤
ドルフィニストアカデミー主宰。京都大学理学部物理学科卒業。京都大学院理学研究科物理学専攻、修士課程修了。2001年より、イルカのスピリットをチャネリングする綾子夫人と共に、イルカのように生きる「ドルフィニスト」を提唱し、全国にて講演活動を行い、人々の目覚めやヒーリングに従事する。現在は悟りのコミュニティにおいて、鋭い論理と慧眼で悟りへと導いている。著書『悟りハンドブックー〈私〉を思い出すこと、それが悟りです!』(ナチュラルスピリット)。

 

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『悟りハンドブック』
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