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次元を超えて隣の地球へ
『人間は宇宙船だ』
松村潔著/ナチュラルスピリット
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白隠禅師は、心身のバランスを崩してノイローゼ状態になった時に、京都の山奥に住む白幽子という仙人から解決方法を教えてもらったという。
これは頭の上に鴨の卵のような(軟酥の)塊があるとイメージし、それが融け出して、体の調子の悪い部分に浸透することで症状を洗い流すというものだ。このことは「内観」という検索項目で、wikipediaにかかれている内容で、わたしはそれ以上のことは詳しく知らない。
心理学的には、この内観は自分自身の精神状態を観察する方法らしく、この手法は主観性が強いとwikipediaに書かれている。
白隠禅師の方法と、心理学的自己観察はどう違うのかというと、白幽子が教えた軟酥は頭の上にあり、頭の中にはないということだ。
心理学は、ほかの科学分野と同じく、基本的には身体の外に意識など存在しないと考えるはずなので、内観法で自分の精神状態を観察すると、これは自分の内側から自分の内側を観察するということを避けることができず、これは迷い人が迷い人を導くようなもので、主観的で、堂々巡りをするに決まっている。
しかし白隠禅師のそれは、頭の上、つまり頭の外から、身体の内部を観察することであり、この場合、迷妄に陥ることはない。
わたしは最近、7層のコスモスについて毎日書いているが、頂点にある「一なる意識」は、自己分割することで、下のコスモスを作り出す。なので、下のコスモスは上のコスモスを小分けしたものという点で、下のコスモスは上のコスモスの腹の中にあるというような構造だ。
下から二番目のトリトコスモスは、人間のコスモス。この小さなコスモスを、もうひとつ上にあるメゾコスモスは、外から包み込んでいるような光景だと考えるといい。
となると、白隠禅師のように、頭の外に出てそこから身体の内部を見るというのは、ひとつ上のコスモスから下のコスモスを見ているということになる。
この地球的文化の一番の問題は、自分のコスモスを閉鎖したということで、7つのコスモスがあるということを認めていない。なので、トリトコスモスも、その上のメゾコスモスとは結びつきを切り離している。
白隠禅師が陥ったノイローゼも、この閉鎖から来ていると考えてもいい。
7つのコスモスのルールとして、特定のコスモスの位置は、上と下に挟まれた中で決まるというものがある。
もちろん課長は、部下と部長に挟まれて、自分がやることがわかるというものだ。孤立したコスモスの中では、どんどん道に迷い、いかなる解決策も見つからない。
心理学的な内面の観察は主観的だが、頭の外から、つまりひとつ上のコスモスから見ていくというのは「客観的姿勢」で、地図の全景が見えるので、正しい方向を見つけ出すことができるが、近代心理学は、身体の外にもうひとつ大きなコスモスの意識があるということを認めないために、どう頑張ってもこれ以上発展することはないし、ますます迷いの道に入ることは疑いようがない。
だいたい、人の性格を病名にしてしまうし。
で、グルジエフの「自己想起」という修行があるが、これは自己同一化している自分から脱却するというものだった。
自分は時計を見ている。この時、この自分は時計に釘付けにされており、時計を見ているわたしということを十分には意識していない。
つまり時計に捕まえられており、時計を見ているからこそわたしは存在するとでも言えるような状態にある。時計がなくなると、自分は死んでしまう。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」というのも、我を証明するには思うことが必要で、思っている間だけ我は存在するといいたげで、これもグルジエフ式に言えば、思いに自己同一化して自己が不在になっているという状態だ。
「我思う、ゆえに我あり」ではなく、「我思うゆえに我は存在しない」ということだ。
自己想起は、休みなく印象に食われて不在になる自己を救済するために、自分が時計を見ている。その光景を第二の自分が脇から観察している。すると、時計に夢中になっておかしくなっている自分をそこに発見する。
さらに、それを第三の自分が見ている。さらに第4の自分もそれをもっと遠くから見ているというふうに連続させる。
これはかなり苦しい修行法だ。というのも、人間は何かのイメージに自己同一化して、この中で眠りたいと思っているからだ。
知性は歳を取るほどに硬直し、決まりきった考え方の中に自己喪失し、寝床から一歩も出ないようになっていく。これもトリトコスモスに閉鎖するということに等しい。
自己想起は、その人に「寝るな」と言い、けっこうな苦しみを与える。
たとえば女性は女性らしく、男性は男性らしくという刷り込みは、常識的に存在する。そのうちに、自分は女性なんだとか、自分は男性だと思い込むようになるのでは。そして、それを疑うこともなくなる。
すると応用的知性とか、多角的に考えるなどということはできなくなるだろうし、自らケージの中に入っていく人ということになる。
しかも、ケージの中にいることに気がつかなくなる。しかしこのケージの中に入ると、何も考えなくてもいい安心感があるのだ。人間はこうして退化する。
白隠禅師の内観は、頭の外から、身体の中を見ることだったが、これは身体に自己同一化している自分を、第二の視点から観察していることに等しい。
外から見ると、偏向とか歪というものは簡単にわかるが、内部にある限り、それはわからない。
わたしが以前、地球の惑星グリッドは、太陽のグリッド、つまりインドラネットとはズレがあり、噛み合っていないと書いたが、地球から見る限りは、惑星グリッドは正常で、正しいものだ。
しかし、惑星界のメゾコスモスの上にある太陽のデュートロコスモスから見ると、惑星グリッドは、というよりも地球は妙な偏向をしている。
上から見て、正常な動きをしてくれれば、上とのつながりは切れない。しかしコスモスが閉鎖して、勝手に動くようになると、上とのつながりの糸は切れる。
自己想起は、本来の大きな自己としての自分から孤立しないようにするためのものでもあるのだが、さてここで、新たな問題ということを書いてみよう。
ヘルメスの「上にあるものは下にあるものに似ている」ということで、コスモスの上、中、下という3つのサンドイッチ構造を考えるのは、シンプルでよかった。
ところがコスモスは7層あり、あるコスモスは上にあるものと下にあるものを参照して、自分の正しい位置を見つけ出す。この時、上にあるコスモスは、今度は自分を真ん中にして、下にあるコスモスと、さらに上にあるコスモスを参照する。
でも、特定のコスモスは、その位置から見る限りは、いつも自分よりも一つ上、自分よりも一つ下のことしかわからない。
白隠禅師の内観は、“頭の上にいるわたし”ということで、身体コスモスと、その上のコスモスという上下ふたつの関係でのみ成り立っていた。
下のコスモスからすると、上にあるコスモスは、自分で把握できない範囲にあるので、自分はその上のコスモスの腹の中にあるので、胃に「あなたが所属している人はどんな人?」と質問しても答えられないように、上のコスモスは無色透明に見えるものだ。
「太陽系の太陽ってどんな性質があるんですか?」と聞かれても、太陽系の中に住んでいる人は、このカラーが見えない。
白隠禅師の内観で、身体の中にある意識は、頭の上にある超越意識については無色透明なものとみなし、しかしその先はわからない。
でも、頭の上にある意識は、自分を中心にして、さらに自分よりも上にあるものを意識することができる。それも無色透明であることには違いないが。
精神世界で、ワンネスとか非二元というものはだいたい、この自分の上にあるコスモスは無であり、無色透明であるとみなしていることに等しく、真の意味で7つのコスモスの一番原初にある一なるもの「プロトコスモス」のことを言っているわけではない。
で、自己同一化から脱却して、自己を取り戻す自己想起の作業は、終わりがない。
というのも、人格に同一化している人は、苦労して、自分を人格の牢獄から救済することができて、カラーのない透明な意識を手に入れたと思っても、このひとつ上の意識に抜けた人は、ここでさえ、何か別の印象に同一化していることに、今度は気がつくのだ。
たとえば、人格から抜け出す。すると、今度は自分が神話元型(アーキタイプ)に“食われている”ことに、ある日気がつく。
気がつくというのは、同一化の眠りから覚めたことなので、これはすごいことだ。一生かけてもそれができないのが普通だ。
太陽系の中に住んでいる人は、基本的に、この神話元型に同一化していることから脱却することは永遠にない。同一化することが、この太陽系の中に生きるということでもあるからだ。
同一化をやめたとたん、太陽系から追い出されるようなイメージで考えてみるといい。
太陽であるデュートロコスモスの上に、恒星や銀河のマクロコスモスがある。神話元型意識から脱却した存在は、今度は恒星のロゴスに同一化していることに、ある日気がつく。
それは、さらに上にある全太陽識「アヨコスモス」を意識した時だ。
玉ねぎとかミルフィユのような宇宙構造の中では、薄皮を何度剥がしても、またさらに奥から新たな皮が出てくる。そもそも、無限自己想起はあまり意味がない。その人が何を本質と考えるのかでかなり違う。
その人が本質と考えている位置が決まっていれば、そこに至るまでに障害物となる「印象への自己同一化により、自己が不在になること」を解決する予定表ができる。
本当のプロトコスモスの、一なるものに行きたいと思っている人はまずいないが、もしそのように望んだ人がいたならば、旅の始めのほうで、まず人間の形、人間らしい思考、感情などを失う。この洋服を、そうそうに脱ぎすててしまうのだ。
その後、生命というものからも脱却するだろう。命を捨てるというのはわかるが、生命本質を捨てるとか、神性を捨てるというのは想像しがたい。
わたしは最近よく、幾何図形になるという話をよく書いていた。人間の身体性から、図形に移動するのだ。これは、恒星のロゴスの意識に近い。
しかしこれも真上のアヨコスモスで、もろくも崩れ去る。
どっちみち人間が、身体とともにあって、そこで初めて自分という自我意識を持てる状態の時には、身体がなくなった瞬間にもうその人はいないので、神話元型になるとかロゴスの図形になるなどというのは、ずっと遠い話だ。
わたしは毎日、応身というか仙人というか、高次元存在と関わっている。この関係がないと、わたしは生きていけない。
“わたしは彼らの作り出す社会においての社会生活をしている”と思ってもいいのではないかと考える。マズローは、人間には社会承認欲求があるというが、ならわたしは、応身や仙人や宇宙人の仲間としての社会承認欲求がある。
で、彼らはだいたい人間の形は持たない。
というのも、たとえば二本の足は歩くためにある。が、瞬間移動できる彼らからすると、二本の足は無用の長物ですぐにとりやめてしまう。
手は、物質を触って作業するためにある。彼らは想念でなんでも作り出すので、手は必要がない。というよりは、時々手でそれを作り出すと良くて、いつもは引っ込めていればいい。
なので結局、円錐形とか、球形とか、ロート型とかになったりすることが多い。
むしろ、思考の形の身体を持つ。こういう形の「応身」が来たら、それはこういう思考を提示しているのだと思えばいい。
しばらく逆五角形というか、下の一点に向かう線が長い、横から見てダイヤモンドのような図形を見ていたが、これはゴーイングホームの意図で、マクロコスモスのわたしの家、「北斗七星のあの四角い部分に戻れ」というものだった。
あるいは「ちょくちょく出かけてもいいが、門限は守ってね」というものだ。
この北斗七星が、地球には針の先一点でつながっている。左のメラクから下へのラインがあり、右のフェクダから下へのラインがあり、この二種類はかなり性質が違う。
ということは、針の先一点と言いつつ、やりかたは二種類あってもいいということだ。
人間の形への自己同一化によって、人間らしい思考、感情、感覚が次々と生産される。
このケージに捕獲されると、もちろんキリストの復活も絵空事にしか見えなくなる。wikipediaでは、仙人の白幽子を疑っている記述があるが、もちろんこれもトリトコスモスの「主観性」に幽閉されている人の特有の姿勢だ。
物質世界は、限られた時間、限られた空間に分割された世界なので、年代がズレているだけで疑うが、仙人がトリトコスモスに気を使うとはとうてい思えない。白隠禅師が理解するだけでよかった。
ちなみに、白幽子という名前にしろ、白隠禅師という名前にしろ、「この人たち何やってんの?」という感じだ。
松村潔
まつむらきよし/1953年生まれ。占星術、タロットカード、十牛図、エニアグラム、ライフシンボルなど、 いくつかの手法を活用して講座・研究会などを開催。アカシックリーディング等でも、タロットカードや占星術を併用すると安定性が高いという考えから、ツールの複合性を提案している。『わたしの運命がわかる地球星座占い』(角川書店)、『ディグリー占星術』『三次元占星術』(以上、説話社)、『土星占星術講座』(技術評論社)など著書多数。
http://www.tora.ne.jp/
『夢を使って宇宙に飛び出そう』
存在の4つのフェイズを縦横無尽に探究する
松村潔著/ナチュラルスピリット
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松村潔著/ナチュラルスピリット

