この連載がきっかけとなって生まれた気づきの短編集『プルートに抱かれて』を、昨年発売したヘルメス・J・シャンブさん。
この2月に、意識探求をテーマにした新刊が発売されたばかり!
今回から、ヘルメスさんによる“この連載で発表した「気づきの小説」の解説編”をお届けしましょう。
※2冊目の著書『道化師の石(ラピス)』も小説仕立てで、独自の世界観を伝えています。
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気づきの小説「彼女と私と、もう一人の彼女」の解説
今回からしばらくの間、趣向を変えて、これまでの連載作品の解説を行おうと思います。
解説と言っても、解説が何を意味するのかわかりませんが、物語を読み解く、ということであり、これは何を伝えているのか? というお話になると思います。
今回は、連載二回目の「彼女と私と、もう一人の彼女」について。
さて、この物語にテーマがあるとすれば、それは「イメージ」です。
主人公は、イメージだけを見て生きており、それが普遍の現実=正しさ、であると思い込んできました。
ところが、徐々に、“イメージがない”というひと時の状態に気づきます。そうしてそこに空白という、空虚さや無を感じるので、必然的に不安定な状態に陥ることになります。
「私は、一体何をしているのか? どこに向かい、どこにたどり着くのか?」という無意識的な自問です。
夢に没頭している心というものは、常日頃、「私は確かな出来事や事象、物質を見ている」と思い込んでいますが、実際にはそうではありません。
心が見ているのは、どんな時でも、自分の信念、自分の考え方や観念だけであって、実際には物質を見ているようで、ありのままの物質を見てはいないのです。
それが、「イメージを見て、イメージを生きている」ということになるのですが、ほとんどの場合、このことに気づいてはいません。
実際に、イメージなしに、信念なしに、目の前のものを見てごらんなさい、その時、目の前の物質のあれこれが、いかに無意味で、力がないかを実感できるでしょう。
つまり、目の前の物質に意味や力を与えているのは、自分の信念だけなのです。ペンであれ、コップであれ、ドアであれ、信念なしに見る時には、「私とペン、私とコップ、私とドア」という分離の感覚が消滅してくるのです。
長くて黒い、一本に束ねられた髪。主人公がそこで見ているものは、自分の理想像であり、イメージでしかありません。もしくは、「あってはならない姿」なのです。
そこで、「私は正しいし、他の人も正しくなければならない」という信念によって、彼女を攻撃します。
つまり、「あなたは、私の理想像に変わるべきだ」と言い出すわけです。なぜなら、「私の価値観では、あなたは間違っているから」と。
目の前にいる誰かが、「良い人だ」と見えようが、「悪い人だ」と見えようが、それはイメージでしかありません。
本当に? と思うかもしれませんが、「悪い人」に見える“その人”は本当に悪い人なのでしょうか?
その人もまた、何らかの出来事や事象から、やむを得ず、自分を守るために何かをしてしまったのではありませんか?
もしもそうなら、その「悪い」ように見えるその人は、そして、私やあなたもまた、誰もが、自分勝手に描いて混乱を作り出すイメージの被害者でしかない、と言うことができます。
なぜなら、イメージがある時にはいつでも理想と現実とのギャップが生まれ、矛盾と葛藤が起こり、そうして怒りが嵐のように発生すると、自分自身や他者に対しての攻撃が開始されるからです。
「良い人だ」と思えても、その理由は何でしょうか?
どんなに良い行為をしたと思っても、いつでもそこに誤解やすれ違いが生じて、新たな問題が発生してしまうことを、私たちはすでに十分すぎるほど体験しています。
私(主人公)と、イメージそのものであるもう1人の私(主人公)がいる。
だからこそ、「私は一体何をしているのか?」という疑問が生まれるのです。私ではない私を見ているので、矛盾と葛藤が発生するのです。
そうしてもし、自分自身をそのようにイメージを交錯させながら見ているなら、同級生である彼女(対象)のこともまた、はじめから「ありのまま」に見ることなどできず、よって、主人公が抱くイメージを重ねられた「イメージ上の彼女」、つまり「もう1人の想像上の彼女(対象)」がいる、ということになります。
では、嫌いだ、と攻撃するのは誰で、攻撃されたのは実際には誰なのでしょうか?
つまり、イメージである主人公が攻撃しているのは結局、自分が作り出したイメージである彼女(対象)であり、それら全てがイメージ上の物語でしかないということになります。
長くて黒い、一本に束ねられた髪。その姿形は、それ以上でもそれ以下でもなく、良くもなく悪くもないのです。般若心経で言うように、清くもなく不浄でもありません。
けれども、もしもそれを「良い」とか「悪い」とか、善悪の判断で裁くなら、そこには必ず自分のイメージがあり、他者を自分の思い通りのままに(恐怖ゆえに)コントロールしたいという欲望があるのです。
主人公は、やがて気づきます。「私は、一体、何を見ていたのだろうか? 私は、彼女のことを、全然わかっていなかった」と。
そうして、自分自身で創り出していた“相手のイメージ”が消滅した時、初めてコミュニケーションが可能になったのです。
主人公にとって彼女はもう、良い人でも悪い人でもありません。そこで初めて、ありのままの彼女を知ることができるのです。
つまり、そこでは、自分のイメージに基づいた価値判断や、区別や差別がありません。「私はこうだ」「こうあるべきだ」「君はこうだ」「こうでなければならない」といった、矛盾や葛藤の根が抜かれるのです。
ベンチに座っている彼女に対し、「こうでもないし、ああでもない」「こうであるべき」ということもないし、「そうしなければならない」ということもない、そのような純粋無垢な心境が訪れたのです。
束縛から自由になったのは、まさに自分自身であり、束縛の原因は、対象物にはなかったのです。
「彼女のせいで」ではありません。
「彼女が変わらないから」でもありません。
自分の幸せや平安を、他者や出来事に委ねても、つまりは、原因=罪を押し付けても、問題は何一つ変わることがないのです。
真理というものは、全ての全てです。
真理がスピリチュアルの世界にあるのでもないし、仕事の中にはない、というわけではないのです。どこかの何かの世界に偏って、真理を見出すことはできません。
真理はベンチにあります。長くて黒い、一本に束ねられた髪にあるのです。
目の前のペンに、コップに、ドアに。
だからこそ、大切なのは、自分が何をどう見るのか? であり、見たものに対し、イメージを重ねて見ていては、真実を知ることなどできないのです。
ありのままに──。
そのように見ることができて初めて、そこに真理が見えてきます。
荷物や重荷(過去や未来)とは、すなわち自分が創り出すイメージであって、その重荷を捨てた状態が、いかに清々しく、生き生きと新鮮になるか、ぜひ自分自身で見出すことです。
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1975年生まれ。30代前半、挫折と苦悩を転機に、導かれるように真理探求の道に入る。さまざまな教えを学び、寺で修業し、巡礼の旅に出るが、最終的に「全ては私の中に在る」と得心、悟入する。数回に分けて体験した目覚めにより、ワンネス(一つであること)を認識し、数々の教えの統合作業に入る。「在る」という教えは、これまでの師たちの伝統的な教えであるため、師たちの名前を借りて「ヘルメス・J・シャンブ」と名乗り、初著作『“それ”は在る』を執筆。 その後『道化師の石(ラピス)』『ヘルメス・ギーター』、独自の世界観を小説で表現した『プルートに抱かれて』などを刊行。現在は、ナチュラルスピリットの個人セッションなどで、探求者たちに教えを伝えている。
https://twitter.com/hermes_j_s
https://note.com/hermesjs
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