ヤン・ケルスショットが贈る/個を超えた人生「ノンデュアリティの現れ」《前編》

B!

悟り系のジャンルで好評の『ホームには誰もいない』の著者であり、ノンデュアリティの教えを発信している、ヤン・ケルスショットさん。
このたび、ノンデュアリティに関する、自身の教えを綴った記事をシェアしていただきました。
前編と後編の2回にわけて、お届けしましょう。

『ホームには誰もいない』
 ヤン・ケルスショット著、村上りえこ訳/ナチュラルスピリット

 

 

スタピチャンネルで動画を公開中!

個を超えた人生とは?

過去2000年にわたり、家父長的な組織だったスピリチュアル系の団体は、ここ数十年間により、バランスのとれたアプローチをする組織へと徐々に移行しています。男性的な要素と、女性的な要素を統合する形へと。

統率力、教義、序列制度、偶像崇拝、秘密主義などを重んじる傾向は減りつつあり、友情、平等、優しさ、思いやり、分け隔てのない対応などを、大切にするようになってきました。
聖と俗、善と悪、哲学と宗教、科学と霊性などの二元性が薄れているのです。

非二元(ノンデュアリティ)が、これらすべての一見相反する見解の間に、橋を架けているかのようです。
なぜなら、非二元の前提では、現実を2つに切り分けることはできないからです。マインドによって、2つに分けない限りは。

誰もが、そしてすべてが、実は時間を超越したワンネス(一体性)の現れなのです。
では、どうすれば非二元の叡智を、日常生活に取り入れられるのでしょう?

「トランスパーソナル(個を超越した)な人生」とは、二元的な日常生活に、非二元の認識を取り入れる「ハイブリッドな人生」を表す言葉です。
言わば、「宗教的なものと俗なもの」「個人的なものと非個人的なもの」を統合する人生です。

私たちの「個人的な人生」は、エゴである人格の物語です。
一方、「宇宙的な人生」はエゴがなく、時間を超越しています。後者は白い紙のようなもので、その紙に「個人の物語」が書かれるのです。

ヨガや瞑想を実践している人は、この個人的な領域を超えた状態を味わったことがあるかもしれません。
「個人」と「非個人」は相容れないように思えますが、この2つは別々のものではないことを、心に留めておかなければなりません。
個人的な生活は、非個人的な生活のほんの一部にすぎないのです。

それはよく、波と海にたとええられます。人間(ヒューマン・ビーイング)という存在に対し、波は「人(ヒューマン)」の部分、海は「存在(ビーイング)」の部分です。
波は「個人的な物語」を表し、海は「非二元である存在」を表します。後者は、非個人的な、時間や境界のない性質を持ちます。

このような、いわゆる、個を超えた冒険は、「個人」と「非個人」を意味する、波と海のダンスに端を発しています。
それは通常、生命の神秘に対する好奇心やスピリチュアルな無条件の愛の体験、または「人生にまだ何か根本的なものが欠けている」という感覚などから始まります。

それらの理由から、寺院やシナゴーグ、アシュラム、教会に行き始める人もいます。でも、この非二元の冒険では、教義は役に立たず、聖典は不要で、盲目的な信仰も強要されません。
必要なのは、ただ、直接的な体験を頼りにするだけです。
あたり前のように自分が存在することについて、子供のように不思議に思うところから始めるのです。

「私は存在する」= 「われ在り(I AM)」と、ただ感じるところから──。

この言葉「I AM」が、真に意味するものは何でしょう?
私たちは、自分が存在していることに感謝しているでしょうか?
それとも、あたり前のこととして生きているでしょうか?

朝起きた時に、「自分が存在していることに感謝します」と思う人は、ほんのわずかしかいません。
なぜなら、私たち人間の条件付けられた心というのは、そのような考えを好まないからです。エゴの声はこう言います。

***

ええ、私は生きていて、存在しています。
でも、腰痛に悩まされていますし、来年には仕事を失うかもしれません。
自分という存在に感謝するよりも、心は他のことでいっぱいなんです。
それに、感謝したからといって、何の得になるんでしょう?

***

これは、条件付けられたマインドのエゴが生じさせる典型的な反応です。多くの人は、頭の中でこのようなことをしゃべっているのです。
エゴなマインドは、あれこれ思いを巡らして不平不満を言う達人で、通常は「あらゆる種類の破滅のシナリオ」を創り出します。
そして、頼んでもいないのに、ナレーターが語り出すのです。

その際の声を、私は「頭の中にオウムがいる」と表現しています。このオウムは、両親や祖父母、神父、友人、学校の先生から学んだ考えや信条などを、繰り返すのです。
さらには、本や映画、新聞、テレビ番組、ウェブサイト、ソーシャルメディアなどから取り入れたことなども。

ここで言っているのは、地理や数学、天気予報といった実用的な知識のことではありません。そのような情報は、中立的かつ、実用的です。
私が指摘しているのは、すべての人や物に常にレッテルを貼ってしまうような、繰り返される思考パターンのことです。
ほとんどの場合、そのようにして聞こえてくる声は、心の安らぎや満足感ではなく、むしろ欠乏感や分離感、苛立ちをもたらします。
このような声は通常、「判断」「期待」「比較」に基づいています。条件付けのない、明晰なマインドからくるものではありません。

 

ヤン・ケルスショット
ベルギーのアントワープ大学で医学を学び、1986年より自然医学を実践。7歳の時に「もし自分がいなければどうなっていただろう?」との疑問を持ち、それが後に究極の真理の追究へと繋がる。スピリチュアリティと哲学に常に関心を持ち、やがて禅仏教、タントラ、アドヴァイタ・ヴェーダーンタなど東洋伝統に到達。東洋の叡智の真髄を追求しながらそれを西洋のライフスタイルに調和させることが彼のスピリチュアル探究の礎を成している。トニー・パーソンズとの出会いにより、探求は終焉を迎えた。

http://www.kersschot.com

最新の記事はこちらから