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松村潔著/ナチュラルスピリット
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最近、毎日「7つのコスモス」について書いていたのだが、最後のミクロコスモスについては、やはり人間よりも小さな世界であり、そこに意識が集中すると、ずいぶん息苦しい思いをする。
果てしなく広がる精神というものが、ミクロコスモスを考える時には発揮できないのだ。そういう時に、“縄文時代について書いている”という夢を見た。
その後、夢の中では、木でできたジャングルジムを昇っていた。
縄文時代の人々の意識については、現代人には理解できないものが多いと思う。
遺跡をたくさん調査しても、それを調べているのは現代人であり、この現代人の生き方、考え方のフィルターがあるので、漏れてしまう情報は大量にあり、縄文人を理解するには、縄文人になるしかないのだ。
折口信夫、あるいはそれを解釈した中沢新一の見解かもしれないが、縄文時代の人々は、陰陽極端な落差を良しとする思想を持っていたと書いてあった。
それが仏教伝来以後は、陰陽中和を理想とするものとなり、縄文的思想は廃れていったのだと。
陰陽極端な落差というのは、季節にたとえると、昼が長い夏と、夜が長い冬の関係にあたる。
四季の流れは、横からサインウェーブのように見ることができる。陰陽中和の春がゼロ。夏でプラスのピークに行き、また秋にゼロに戻り、冬にマイナスのピークに達する。
「陽のピーク」は、12サインではかに座にあたり、これは聴覚を示している。聴覚は、身体から離れた信号を送受信する。
反対の「陰のピーク」は、やぎ座にあたり、これは均衡感覚であり、小さな立方体の中に、上下、左右、前後の均衡をもって閉じこもることを示す。
ケプラーは、木星と土星の間に立方体の図形が成り立つと考えていたが、土星はやぎ座の支配星で、わたしは大体、このやぎ座を「箱」と言うことが多い。
縄文時代には、謎の装飾品が作られている。それはなんのためにあるのかわからない。
また、村を作ったが、中心には墓地があった。
現代人にはまったく理解できない縄文人の生き方とは、陰陽の落差の極端なものであり、これは脱魂して、身体から遠く離れたところに拡大し、また小さな身体の中に戻るという行き来が良いという考え方ではないか。
実用的には理解できない装飾品は、呪術的な意味を持っているが、呪術というのは、身体に閉じこもっている「陰」の時、すなわち物質的に生きている時にはなんの作用もない。
それは、空中に飛び出した時に初めて有効性がある。あるいはもっと飛ぶため、あるいはもっと身体に落とすため、この行き来をスムーズにする道具というのが呪術的道具ではないか。
仏教の陰陽中和思想というのは、春と秋を重視することだが、春のおひつじ座は、自我感覚であり、この世界の中に自我を押し込む。
そして行き着く場所は、この世界のどん底とも言える秋分点であり、視覚を示すおとめ座の終わりと、触覚を示すてんびん座の始まりは、視覚や触覚で確認できる世界を認識することであり、つまり仏教伝来の後に重視された陰陽中和とは、「物質世界重視の世界」ということなのだ。
仏教が定着する前の時代、あるいは奈良時代よりも前は、まだ日本人は縄文精神の影響が残っており、たとえば西行は桜の歌(*)を残したが、自分が身体から外に広がっていく光景などを歌っているのではないか。
*桜の歌/“願わくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃”
縄文時代、村の人々は、日常的に死者と関わっていたと思う。
というのも、陰陽の振りを大きくして、身体の外に飛び出した時、結局、そこには死者がいるし、自分が身体から飛び出した時には、自分も死者とあまり変わらないていなのだ。
今日の人は、この縄文的な、陰陽の極端な振りができないのかというと、毎日夜に眠り、その時に、脱魂して、マクロなコスモスに移動している。これが夢体験なのだ。
そして朝目覚めた時、身体に閉じ込められて、陰の極に行く。ただ脱魂後の、夢の世界についてはまったく詳しくないために、宇宙旅行の地図を持たないで、いろいろさまよっている。
縄文人は、そのあたりは詳しかったと思う。
縄文時代は、BC13000年あたりから一万年くらいにあたると言われている。ユクテスワのサイクルの表で言うと、現代から一万年後、あるいは過去に遡って、14000年前くらいが、ビシュヌナビー(ブラフマ)最接近点であるという。
このあたりは、アトランティス大陸が沈没した前後でもあり、「洪水後」あるいは「洪水のただ中」の時代だ。
シュタイナーの説く「後アトランティス文化期」で、最初の第一古インド文化期は、BC7000年あたりから始まり、古インドの思想は、このビシュヌナビーに回帰するという性質が色濃く残っていて、たとえばサンキヤ哲学でも、瞑想の果てに、最後は無(プルシャ)に消えるのが理想とされている。
今でも、ヨガを真剣に取り組んでいる人は、これを本気で考えているのが怖い。
縄文時代の精神は、洪水の中にあって、ビシュヌナビーに戻るというような、あるいはビシュヌナビーの無から地上にやって来るという「行き来」が楽しいのだ。
わたしが7つのコスモスについて書き、一番下のミクロコスモスを書いていて、なんとも居心地が悪いと感じた時、縄文の夢を見たのは、ミクロコスモスに沈没するのでなく、飛び上がってマクロなコスモスに行き、またミクロコスモスや、その上の人間世界のトリトコスモスに降りてくるという行き来をすると健全である、ということなのだ。
ヘルメスの「下にあるものは上にあるものに似ている」という思想は、人間トリトコスモスを支点にして、その上のプロトコスモス(ブラフマン、1なるもの)、アヨコスモス、マクロコスモス、デュートロコスモス、メゾコスモスが、人よりも下のミクロコスモスに、ぎゅうぎゅう詰めで映し出されることも意味する。
なので、わたしはミクロコスモスを「弁当箱」にたとえるのだが、近代以後の科学は、ミクロコスモスについて考える時、これがマクロなコスモスの写し絵だとは考えず、純粋にミクロコスモスを注視する。
縄文精神の人ならば、自分が飛んで行ったマクロなコスモスの地図に通暁しており、これを人間サイズ以下のミクロコスモスに投影して、そこにも詳しいミニチュア地図を作ることができるのではないかと思う。
マクロなコスモスを参照しないで、ミクロコスモスを考えると、きっと勘違いが増える。
たとえば、人間トリトコスモスの個人的な癖、傾向が、そのままステンドグラスを通したように、(つまり色眼鏡が)ミクロコスモスに投影されて、そこに「閉鎖系」の体系ができてしまうのではないか。
コスモスは7つあるということから、各々コスモスの中にもこの7つの区画ができる。
当然のことながら、ミクロコスモスにも7つの層ができることになるが、この7つの層の一番上、一番下には、そのコスモスを閉じるための鍵として、“絶体”あるいは無、無限としての「知覚の不可能性」の領域が設定される。
人の身体の輪郭よりも小さなミクロコスモスの内部に住んでいるものは、人の身体という輪郭を認識できない。それは、対象化できない果てしなさの領域なのだ。
なので、ミクロコスモスの7つを、人の輪郭(0の数字にたとえる)、内臓、細胞あるいは高分子結合、原子、素粒子のいくつかの階層、無とあてはめてもいいのではないか。
ただし、この分類は大体、科学上の定義を借用したもので、マクロなコスモスを投影した地図ではないので、もうちょっとましな分類ができてもいいはずだ。
すでに書いたように、科学的な地図はマクロなコスモスを参照しないで、純粋にミクロコスモスをじっと見て作成したものなのだから、何かが間違っているのだ。
ミクロコスモスに、上のコスモスを投影する時、上下はさかさまにしたほうがいいと思う。
これはタロットカードで言えば、「12吊られた男」の見方なのだが、人間の身体に近いところから順に、遠いほうに向かって、地図を作製する。
すると、ミクロコスモスの一番下の無は、大なるコスモスの一番上のプロトコスモスやアヨコスモスに似たものとなる。
理論物理では、「無を先送りする」ということが言われており、無の手前に、多数の素粒子を設定して、いつまでも無に到達しないような時間稼ぎがされている。
無は解明する必要がない。なぜなら、無なんだから。
そこでは科学理論も推論も、計算も、想像力も死に絶える。なので、科学で無を解明するという言い方そのものが、奇妙な言い方であり、無の前で科学は死んでしまうのは確実で、もうすでに十分にわかっていることだと言ってもいい。
このパラドックスは、物質を解明すると、物質はなかったということに行きつくというものだ。
縄文精神の上がったり降りたりを繰り返すと、ミクロな物質のいちいちに、精神、意識、生命、自我などが宿ることになるのではないか。
近代以後の精神は機械論的姿勢として、どんなものにも知性や生命は認めないという方針だった。惑星は「冷たい時計」なのだ。
ケンブリッジ・プラトニズムのホワイトヘッドは、科学に神を持ち込めと言った。
自然界のすべてに知性や生命があるという思想は、あらゆるところに精霊がいるというインディアンの思想と同じだが、こういう姿勢で、ミクロコスモスを覗くと、アーノルド・ミンデルのように、意識は素粒子と連動するという考え方になってくる。
わたしが興味があるのは、日常にありふれた素粒子である電子は、今のところ、内部構造のない、つまり大きさのない点として扱われているということだ。
実験では、大きさがあるという兆候が見つかっていないのだという。
ということは、マクロなコスモスとの相似において、これはブラフマンや、プルシャ、プラクリティに近いところにあると言ってもいい。
サンキヤ哲学では、無のプルシャが、有の根源のプラクティを「観照する」ことで、プラクティの中の三つのグナの均衡が崩れ、これが世界というか、宇宙を作り出したことになっている。
プラクティは、見られただけで、おかしくなっているのだ。
電子に大きさがないということは、最初のプラクティにも似ている。それは見られることで、いろんなものに化ける。
電子には能動性、主体性はないと思う。というのも能動性、主体性があれば、見られておかしくなるということにはならないからだ。見られても、「いや、自分は関係ないし」と言える。
懐かしい大槻教授は、火の玉博士と呼ばれていた。これは、UFOとはプラズマであると断定していたからだ。
UFOは知性のある宇宙人の乗り物でなく、自然現象なのだと言いたかったのかもしれないが、ミクロコスモスのすべての粒子は、意識や知性、生命と連動すると考えた時、UFOはプラズマであると言っても不自然ではないし、事実、知性の高い宇宙存在がプラズマ宇宙船に乗ってやってくるというのも、まったく不自然ではない。
プロキシマ・ケンタウリのプラズマ宇宙人が、その宇宙船の中で地球人を改造している光景を見た。
最近、ミクロコスモスのことを書いていて、「もしかして、このプラズマ宇宙人は、科学上でいうプラズマと同じもの?」と思った。
正確には、マクロなコスモスにおいてのプラズマは、物理現象としてのプラズマを「みつえしろ」(*)にしているのだ。
*御杖代/神の杖代わりとなり、奉仕する者。
古い時代によく使われていた四元素という定義の、火の元素とは、大気が電離して、陽イオンと電子があらためて結び付いたプラズマのことなのだ。
事実、炎はプラズマだと言われている。太陽もプラズマなのだが。
縄文の夢では、わたしは木でできたジャングルジムをよじ登っていたのだが、これは縄文精神においての宇宙の階層、ヤコブの梯子だ。
それは宇宙の階層を上がったり、降りたりという中でインフラ整備されたものであり、縄文時代の知恵とは、すべて実体験によって構築されたものではないか。
それは脱魂した人たちの共同作業でもあり、陰の肉体に戻ってきてから会議しなくても、脱魂して、たとえば惑星界メゾコスモスで、金星に集まってそこで集会するなども可能なはずだ。
渡辺豊和の『縄文夢通信』(徳間書店)では、縄文の人は、居ながらにして遠方と通信すると書いていたが、たぶん、それは日本や地球範囲でなく、もっと広範な、他惑星とか、太陽系とか、銀河などのレベルでの通信もしていたと思う。
というのも、いったん肉体から解放されたら、その先は制限するものなど何もない青天井なのだから。
電子は大きさのない点であり、それは「無の至近距離」にあるが、しかし、主体性がまったくない。
この無の至近距離というのは、宇宙の発祥の純粋意識に接近しており、そしてこの純粋意識に張り付く、あるいは寄り添う性質があるということを応用してみよう。
しかし、これまでのように、電子を動かすのに道具や装置を使うのは、近代以後の、自然界には知性も生命もないという姿勢からきているので、道具なし、装置なしで、電子と関わることを考えることが大切だ。
原子などではもうすでに、電子雲は原子核との電気的相互束縛作用があるので、これは「身を固めた」電子であり、人の意識の言うことを聞かない。
というより、聞きたくても聞くわけにはいかない家庭の事情がある。
今日、夢を見たのだが、わたしは身体の大きな人の手相を見ていた。
手相は手のひらに区画を引いたような形をしており、この中に一本、蛇のように蛇行した線があり、この人は、この蛇行した線を気にしてそわそわしていた。
同時に、住んでいるマンションの住人の誰かを気にしていた。
わたしが思うに、縄文人的姿勢でミクロコスモスを考えた時、近代精神で構築された科学理論に合っていないと、攻撃をしてくる人が必ずいるということだ。
こういう人たちは、確立された科学理論を崇めている。
それは、マクロなコスモスとの照応関係を拒否して構築されたものなのだが、そもそもこういう人たちの生き方は、頭のてっぺんに穴が開いていないので、宇宙に抜けられない。
マクロなコスモスとの照合をしようにも、そんなことはできないし、知らないことなのだ。すると体内で、ラインが捻じ曲がる。
手のひらの蛇の線は、蛇行しているので、これが「難癖をつける」「ごねる」ということなのだと思う。まっすぐ道を歩かせてくれない。
手のひらをじっと見るというのが、ミクロコスモスを見るということでもある。
夢の中で、大きな身体の人というのは、なんとなく柔らかい感じがあって、わたしの印象では、これはルシファーなのだと思う。
固い方向に行くのがアーリマン。柔らかい方向にいくのがルシファーというシュタイナーの定義では、もちろんルシファーは、蛇にたとえられるアーリマンを警戒する。
しばらくは機械としての道具、装置を使わないで、電子を扱うことを考えたい。と言っているくせに、三日前から死蔵していた真空管アンプを持ち出して、アマゾンミュージックHDで、音楽を聴いているのだが。
まつむらきよし/1953年生まれ。占星術、タロットカード、十牛図、エニアグラム、ライフシンボルなど、 いくつかの手法を活用して講座・研究会などを開催。アカシックリーディング等でも、タロットカードや占星術を併用すると安定性が高いという考えから、ツールの複合性を提案している。『わたしの運命がわかる地球星座占い』(角川書店)、『ディグリー占星術』『三次元占星術』(以上、説話社)、『土星占星術講座』(技術評論社)など著書多数。
http://www.tora.ne.jp/
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存在の4つのフェイズを縦横無尽に探究する
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松村潔著/ナチュラルスピリット