悟りとは完璧のことであり、完璧は近すぎて見えない

僕はコーチングやコンサルティングをメインに、瞑想や悟り体験にまつわる活動をしている、村田樹紀と申します。昨年まで長年海外に住みながら、深い意識の世界について探究してきました。そのことについて書いた前回の記事が好評だったため、今回から「意識の世界」をテーマに発信させていただきます。どうぞ、よろしくお願いします!

深い瞑想状態の果てに行き着く先、想像を超えた全てがある場所「絶対無」とは?

前進しているのか、同じところを回り続けているのか?

日本でも流行しているマインドフルネス瞑想では、「良い悪いをジャッジしない」ことが強調されます。これはある見方からすると、確かに役に立ち、強力な力にもなります。
ただし、逆に「ジャッジしていく」方向にでも、意識は成長していくことができます。ですから、一概にジャッジしないことだけが、唯一絶対の法則ではありません。
深い意識の世界での成長を、絶対無=悟りの境地から見る時、瞑想においては、他にも重要なポイントや原則がたくさんあります。

その一つは、マインドフル瞑想などを、「上達しよう」とする姿勢や感覚です。
他のスタイルの瞑想や心身のワークにしても、自分を深める時に注意しなければならないのは、瞑想や意識を「深める」ことや修行で「前進する」ことが、どういうことなのかを理解しているかどうかということ。
このことを始めからよく分かっていないと、同じ場所をぐるぐる回り続けてしまいます。

瞑想に限らず、人間は普段そういう無駄を常に繰り返しています。同じ場所でグルグルとただ回り続けていることを、前進・進歩だと勘違いしているのです。
当たり前のことですが、全ての人間は、今よりも良い生活をしようと望んでいます。そのために、普段から色々な工夫をしたり、将来の計画を立て、やりたいことや自分の理想に近づくために前進しようとしています。
瞑想や精神的成長の一番の頂点であり、最終地点は、悟り=絶対無です。この絶対無のほうから見れば、瞑想にしろ、普段の生活にしろ、「前進しよう」「改善しよう」としてしまうことは、様々な無駄を繰り返していることになります。
しかし悲しいかな、それが人間の普通の姿です。上達しようというごく普通の行為や考え方から、迷いや根本的な間違いが始まってしまうのです。

「これ以上」のものは存在しない絶対無の世界

気を付けなければならないのは、「何かが不完全である」「不足している」「ダメである」という感覚や考え方です。
私たちは、3次元という不完全な世の中に住んでいます。そのため、〝完璧ではないので、上達したり改善したりして前進しなければならない〟という感覚を自ずと持ちます。瞑想にしても自分の生活にしても、それは同じです。

しかし、絶対無(悟り)の世界から見ると、全てがそのままで完璧であり、すでに完全なのです。完璧なのですから、「これ以上」というのは、あり得ません。
例えば、「これ以上の幸せ」というのも、あり得ません。「これ以上の美しさ」というのも、あり得ません。
なぜ、これ以上の美しさがないかと言えば、すべてが本当の意味での美しさそのものだからです。同じように、これ以上の神聖さや、これ以上の尊さといったことも、全くあり得ない世界(意識状態)なのです。
しかも、そこでの完璧さは、3次元で考えられるようなレベルの「完璧さ」ではありません。全く次元が違う、真の完璧さです。
それが、悟り=絶対無の境地です。

ですから、悟りとは想像を遥かに超えた、完璧の中の完璧のこと。これは、通常の意識状態では経験できません。瞑想や修業とは、そのためのものです。
「これ以上がない」ものを体験するための完璧な世界なのですから、まるで「それ以上がある」ようにアプローチするのは、おかしなことになります。
しかし、通常の意識状態にいる人間から見れば、「全く経験できない完璧なものを経験するためには、前進・上達が必要だ」という発想になるのは自然なことです。ですので、〝どのように〟前進するのかが、重要になるのです。

完璧は近すぎて見えない

このような「完璧さ」のある場所を3次元のイメージで捉えると、雲の上にあるような手の届かない遠い場所に思えてしまいます。
でもそうではなく、逆に〝今ここ〟に「完璧の中の完璧」=悟りが存在しています。その意味で、完璧は遠くにあるのではなく、近すぎて見えないのです。
自分の影を踏むことができないように、人間にとってとても近くに存在するものは、全然捉えることができません。その意味で、近くにありながら、遠い存在でもあると言えるでしょう。
全ての人間にとって、一番近いものが一番遠く、同時にとんでもなく遠いと思えるものがとんでもなく近い。そういう、逆説的・非論理的なことが成立してしまいます。

完全なる完璧な場所「絶対無」に、苦はありません。悲しみもありません。
これ以上良くすることも、良くなることもあり得ないから、当然、不幸もなく、孤独も寂しさもありません。
逆に言えば、そこを知らなければ、必ず様々な苦を体験することになります。例えば、まだプロセスの途中という、不完全な幸せ。完璧ではない喜びや美しさとして捉え、なんらかの不満が必ず生じ、その結果、現状を良くしようと改善に向かうのです。

物事を改善するのではなく受け入れる

永遠に求め続け、終わりのないループに没頭していることは、例えていえば、永遠にスケートをしているようなものです。
普段の生活では、氷の中の世界は知らず、氷の表面(普段の現象世界)を毎日、「少しでもうまくなりたい」とスケートし続けています。
全ての人は、本当は氷の中に入りたいと思っていますが、その思いには気が付けず、氷の上で永遠に滑り続けているか、氷に「滑らされてしまっている状態」。

氷の上にある世界(毎日の普通の時空間)だけを見つめて生きているのが人間ですが、実は氷の中の世界に、全ての人間はすでに住んでいるのです。
絶対無の世界から見ると、氷は存在せず、氷の上の世界も存在しません。ありもしない氷という硬い存在が、前提としてあたりまえに存在すると思っているのが人間です。
だからこそ、氷の上の物事を「受け入れること」が鍵となるのです。

いつもの感覚で「改善しよう」とすると、氷の上の世界のルールや構造にはまり続けます。氷は溶けず、逆に、氷の上の世界の構造やルールに執着することになり、氷はもっと厚く・硬くなるかもしれません。
そうではなく、改善する余地のないことに納得し、受け入れることです。
それで、氷が溶けていくことになります。なぜなら、存在するはずもない幻想を捨て去ることになるからです。絶対無の世界から見ると、氷は存在しない幻想であり、氷の上の世界も、そこでスケートをしていること(日常の生活や行動)も、存在しない幻想です。スケート(自分の行動等)が、上達・改善することも幻想でしかありません。

そのことを知るために、瞑想や修行があるわけです。
瞑想とは、受け入れることであると思い、「受け入れの行」としてアプローチすると良いでしょう。それが、人間から見たら、瞑想が「上達する」ことになっていきます。
それは自然で当然なことですが、特に瞑想に関しては、本来、上達が存在しない場所=絶対無の世界に行き着くためのものだと分かって行うことが大切です。

 

村田樹紀
むらたしげのり/コーチング・コンサルティング・人材育成を行う。オックスフォード大学の著名な哲学者の元で、西田哲学の研究で博士号を取得。西田哲学、宗教経験、変性意識も探究。その後はカナダにわたり、コーチやコンサルタントとして、カナダ人の妻と共に、人間関係や夫婦関係、マインドフルネス・瞑想などのセッションやワークショップ、人材育成などを行う。世田谷区生まれで鎌倉で育ち、西田幾多郎の鎌倉の稲村ケ崎の家からかなり近い極楽寺に住んでいたが、当時は西田の事は知らないで育ち、いつの間にか西田哲学の研究者となった。昨年末に、20年ぶりに妻と共にカナダから日本に移住。
http://www.murataspiritual.com/
http://www.muratacoaching.com/

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