ドルフィニスト篤さんが語る「イルカのように生きることから始まる、悟りへの道」

イルカのスピリットのメッセージを、奥様であるチャネラーの綾子さんとともに伝えている、ドルフィニスト篤さん。
イルカのように生きる「ドルフィニスト」になるための指針を伝えながら、ヒーラーを育成したり、クライアントを悟りへと導いています。
2017年に発売された『悟りハンドブックー私を思い出すこと、それが悟りですー』は、京都大学で物理学の修士まで学んだ篤さんが、論理的にも「悟り」を 解説しつつ、悩みに答える指南書として現在も大好評。
悟りの精神で、日常を生きていくにはどうしたらいいのでしょう?
「ナチュスピTV」にご登場いただいたドルフィニスト篤さんのアドバイスを、ここで改めてお届けしましょう。
※文章化するにあたり、補足や短縮化が必要な一部の文章を、意味を変えずに整えています。

『悟りハンドブック』の著者・ドルフィニスト篤さん。

 

自我を喜ばして手放し、イルカのようにただ幸せに生きていく

質問者
『悟りハンドブック』には、悟りとは自我にとらわれないことだと書いてあります。悟ることと社会生活の充実は、相反しているように思えますが、両立できるのでしょうか?

ドルフィニスト篤さん(以下、敬称略)
私が主催しているクラスの何人かと接している中で感じるのは、一人ひとりが自分自身の中に充実感とか満足感がないと、なかなか悟りのほうに行くのが難しいということです。
個人の中に、満たされた「本当に私はこれでいいです」というくらいの満足感をまずは持ってみること。自我を喜ばせてあげることが、最初にとても大切だと私自身が思っていまして。でもこれは、絶対ではないんです。そうではなく、いきなり悟りだけを求めていくやり方もあります。(いずれにしろ)やり方は、決まっているわけではありません。

私は「イルカのように生きていく」という話をみなさんにしているんですけども、自我を喜ばせてあげることによって、自我を手放しやすくなるんですね。そのステップがないと、どうしても自我を手放すことが苦しみになってしまう。
「自我を剥がぜ」と言われても、とても嫌だし苦しいし、とても困難を伴います。
なので、まずは自分を喜ばせてあげること。社会生活の充実を望んでいるのであれば、それをしてあげるべきだと思います。それをしてあげることによって、「ああ、私、生きててよかったなぁ」って満足し、自然に次を求めたくなってくるんです。
いろんな覚者さんがいろんなお話をされていて、私の言っている話が絶対的だとは思わないですけど、「こういうやり方はどうですか?」というひとつの提案というか、一番、自我に優しいやり方だと思っています。

質問者
悟りに到達する道はいくつもあるけれど、ソフトで自然なやり方としては、中間点に社会生活の充実があって、充実すればするほど、いろんな方面で「ああしたい、こうしたい」という夢が生まれてくるんだと思いますけれども。
その中に、悟りへ向かうことも、ひとつの道として現れてくるんですか?

ドルフィニスト篤
そうですね。でも、本人が本当に悟りを求めたくなるか?ということです。もしその時に、「私は悟りではなく、現実生活をもっと充実させたい」と思うなら、そうするのもひとつだと思います。
悟りというものは、自分の中から自発的に起こってくるもの。それはとても自然なことであって、無理やり強制的に「悟りなさい」というものではないし、その人の中から自然に出てきて、(物事を)決めていくことが一番かと思います。

イルカ自身は、簡単に言ってしまえば、〝あまり考えていない〟わけです。本性(ほんせい)のままに生きているのは、あの姿を見ていればわかると思うんですけども。
逆に、人間というものは、よく考えてますよね。いろんなことを考えて、計画して、「あの人にこう思われたらどうしよう」と心配して悩んでいるわけです。「そういうものを取り去ってイルカのように生きることも、できるんだな」というひとつの見本として、イルカがいてくれると私は思っているんです。
では、イルカは普段どういう生き方をしているかといえば、すごく喜びに満ちていて、不平不満を言っているイルカってそんなにいないんですよ。その瞬間瞬間、本当に満足しています。

なぜ、人間はそういうふうに生きられないか? ということなんです。おそらく、余計なことを色々考えたり思ったり。実はそこに原因がある。
もっとシンプルにしていけば、ただ幸せでいることができる。それは実はすごく簡単なことで、〝イルカは考えてないのなら、(人間も)考えなければいい〟ということなんです。
本当にすごくシンプルなことでも、人間にとっては難しい。ですので、何がわだかまって幸せになれないのか、不満を抱えたりしているのかということを、自分の中を見ていくことを通して、少しづつ自分を解いていくこと。
そのための見本として、イルカがいるんです。

質問者
人間はやはり考える生き物なので、考えざるを得なくなりますよね。その中で、イルカのように自然に喜んで生きていく場合、『悟りハンドブック』の中にある〝自覚〟が関係すると思いますが?

ドルフィニスト篤
自分の中に、いろんな考えや感じていることがありますよね? 自我が何を考えたり感じているか、普段私たちは意識してますよね?
その中に、要は(本性の自分が)埋没しているわけです。自我が自分自身だと、あたかも感じて暮らしている。でも、それは、私という自分が作ったものにすぎなくて、「それにとらわれなくてもいいんだ」というのが、ひとつの出発点。
すると、自我の中で「これは絶対だ」と思っていたものが絶対ではなくて、「別になくてもいい」となっていく。「でも、持っていてもいい。そこにこだわらなくていい」というふうに、少しづつとらえられるようになると、そこから離れていくことができます。
「今、一生懸命考えたことも、実は(本当の)自分自身ではないんだ。手放しても、全部忘れても、実は問題ないんだ」というふうになります。

でも私たちは、「それは絶対、こういうふうに考えたほうがいい」とか、たくさん決め事を持っています。それに従って、ある意味、無意識的に生きているわけです。けれども、それらに対し〝本当にそれが必要なのか?〟〝感じていること自体は本当のこと(真実)なのか?〟というふうに、ちょっと疑ってみるんです。
すると、「(その考えは)本当の自分自身じゃないから、なくてもいいんだ」となっていき、だんだんそれまで自我が握っていたものがゆるんでくる。「これが私だ」と思っていたものから、解放されることになります。

質問者
そうしますと、考えちゃってもそれにとらわれず、いろんな角度から考えたり、もっと柔軟に物事を捉えるという解釈でいいですか?

ドルフィニスト篤
最初はそれでいいと思います。柔軟に別の考えに置き換えるのもひとつのやり方で、そうやって自分を楽にしていけばいいと思います。
「結局は全部、考え方なんだ」という視点に立つ。何にとらわれても、とらわれなくても自分の自由なんですけども、もちろんとらわれないほうがラクじゃないですか? それが、「私はそれを選択したい」ということなんですね。

質問者
イルカさんみたいな人たちが集まったら、ユートピアのような社会かもしれないです。この本を読みながら、「本当にこのくらい自由になれたらいいな、こういう人たちが営む社会というのはどういう社会なんだろう?」と思いました。

ドルフィニスト篤
思い描いたようになるということではないでしょうけど、でも、さっきお話ししたイルカを例にとれば、イルカはそんなに考えてない。考えにとらわれていない。
まさに、考えなくなったら、イルカのようになっていくと思います。自由奔放なようでいて、彼らは群れを作っています。イルカ社会を作って、その社会が(うまく)回っているんです。なぜそうなっているのかといえば、お互い役割をテレパシックに自然と分担しているから。「あなたはこれして、あれして」と決めなくても、自然とそうなっています。

質問者
本性(ほんせい)の世界=ワンネスと言われる世界には、善悪などの二極的なものはなく、全てはひとつと言われますが。
殺人者や幼児性愛など、倫理を逸脱した行為や思いは、私たちの社会では悪として退けたくなります。ワンネスの世界では、それをも受け入れなければならないのですか?

ドルフィニスト篤
笑。そういうことが起こっているということは、〝すでにこの宇宙を受け入れている〟ということなんですね。だから、受け入れなきゃいけないと思う必要もない。
ただ、社会として、それは許されざるものであれば、それはそれでいいと思います。だから、受け入れなければいけない、というものは何もない。もうすでに受け入れられているから、と考えるのはどうでしょうか? 受け入れられていないものは存在しないんです。すでに(その現実が)あるわけですから。

質問者
しかしそれに、良い悪いというレッテルを貼ってはいけない?

ドルフィニスト篤
〝いけないものもない〟んです。もし、レッテルを貼りたければ貼ればいい。
ただ、そのレッテルによって自分自身が苦しむことがあります。「それは悪だ、悪だ」と排除すると、自分自身の中のそういった(悪と思える)部分を排除することになる。そして、「自分は、倫理に沿った生き方をしなければいけない」と課していくことになる
それによって、たぶん多くの人が自分自身を抑圧して、ストレスがかかっているというのが現実だと思います。そうやって社会が成り立っているというのもまた、事実。
じゃあ、そこをどうするか? みんなが、自分自身の何を抑圧しているのかを、知らないといけないんです。

その人はその人なりに理由があって、殺人を犯したり、倫理的なことから逸脱したのかもしれない。その人はその人の世界の中で、そうなったというか。それをみんなが社会という枠組みから見て、「これは間違っている」「これは許されざるものだ」というふうに言っているわけです。
でも、その人の中では〝ひとつのストーリー〟があって、その人の中では〝ひとつの正しさ〟があるんだと思うんです。「私はそうしたかったから、そうしたんだ」と。なので、ひとつの観点から見たら、ただそうしたかったから、そうしたとも言えるわけです。

(犯罪者の)外側にいる人たちは、自分自身にはそれ(悪事)を許してないから、「それ(悪事)は許されないことでしょう?」と言うわけですけど、その人(犯罪者)のことをよく見ていったら、その人なりの理由があって。
実は、それと同じような問題が自分の中にもあるけど、自分の中で問題視してなかっただけかもしれない。そうことって、たくさんあると思います。
ただ、その人(犯罪者)の場合、問題が自分の中でクローズアップされて、その行為にまで至ったんです。

質問者
本の最初のほうに「悟っても人格者にはなりません」「悟った全ての人が人格者というわけではない」と、ありますが。

ドルフィニスト篤
確かに悟ると、〝全てが愛であり、ワンネスである〟という感覚を体感すると思いますので、そんなに人を傷つけることはできなくなってくる。
でも、悟った人がいたら、人々は期待します。「あなた、愛があるのなら、こういうふうに対応してよ」と。人として、こんなふうに愛して欲しいと期待をするわけなんですけど、悟った人が期待通りのことをしてくれるのかといえば、そうではない
愛に対しても、みな、それぞれの定義を持っています。「こういうふうにして欲しい」「こういうふうにしたら、あの人は愛のある人だ」と思ってしまいます。でも、実はそれ自体が、違うかもしれない。私にすごく関心を向けてくれたから、その人は愛のある人だった。では、〝関心を向けたら愛なのか?〟ということなんです。
ひとり一人の中に、誤解や思い込みがあり、それをもとにして、愛があるかないかのレッテルを貼るわけですが、果たしてそれが・・・。何が本当かは、正解はないんです。
(中略)
悟りというのも、いろんな悟りがあって、〝ワンネス〟〝ああ、悟った〟というような表面的な悟りもひとつだと思いますし、〝宇宙全体をわかる〟という悟りもある。
悟りにもいろんな段階があるように、科学という分析を使ってもっと深く理解していく悟りもあり、科学と悟りの2つがただ存在している感じです。そうやって、神自身が探求しているんだと思います。


悟りという、非日常にも思えることを、日常的なものに落とし込んで分かりやすくお話いただいた、ドルフィニスト篤さん。これはいい、あれはダメなどと厳しく決めつけることは、結果的には自分を裁き、精神的自由から遠ざけてしまうようですね。
イルカの在り方に見習って、物事にとらわれすぎず生きていくのがよさそうです。

 

【『悟り』を解説!】ドルフィニスト篤さん 2/2 ナチュスピTV

 

『悟りハンドブックー私を思い出すこと、それが悟りですー』
(ドルフィニスト篤著/ナチュラルスピリット刊)

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