みけの「0点牧場」/vol.2 ゼロポとスピのるつぼ

こんにちは、みけです。
ゼロポイントフィールドとは何か、ワッツゼロポイントフィールド?
これは本当は、言葉で説明できるようなことではありません。
ゼロポイントフィールドじゃなくたって何だって、精神世界とかスピリチュアルとか呼ばれるカテゴリのことは、ほんとは言葉で伝えられるようなこっちゃないんです。
いや、精神世界やスピリチュアルじゃなくたって、ほんとに言葉で伝えられることなんてあるのか。

そもそも言語は集団の暗黙の合意で成立している

そもそも言語というもの自体、ある特定の音声や文字をなす形と、それが指す意味内容との結びつきには何の必然性もないわけで、たとえば、ある生物を「いぬ」と言わなければならない根拠はなく、dog(英米)でもchien(仏)でもほかの音や文字でもいいわけで、漢字をじっと凝視していると、だんだん意味が崩壊していくことからもわかるように、たいへんにアヤしい。

日本語を使う人とか、英語を使う人とか、ある集団の暗黙の合意で成り立っている約束ごとにすぎないことはあきらかです。
とはいえ、一般的な言葉は、五感や痛みとか痒みとかの身体内部感覚を示して、“この形態、こういう鳴き声の生物を「いぬ」と称する”と言うことができるので、“そうか、わかった”と合意をとりつけやすい。

その生物を「いぬ」と称さなければならない必然的な理由がなくても、合意が成立して「いぬ」と呼ぶことがルール化すれば、言葉は流通します。
「経済」とか「概念」とかの抽象的な言葉であっても、「これは物やお金の流れのことだな」とか、「個々の物事の共通項に注目して、共通項でまとめた大枠のことだな」とか、いくらか遡っていけば五感的感覚に帰着させられる「実体的なイメージ」がある。
人が物やお金をやりとりしているイメージ、雑多なものの中から共通項をもつものを抜き出してグループ化するイメージ、といったところで、だいたい合意が成立します。

ところが、精神世界とかスピリチュアルの分野では、ハナっから「五感や身体内部感覚ではとらえられないものが何かある」と言っている
五感的感覚にもとづいて、五感的感覚から離陸した観念的な世界が紡げるのではなく、むしろ逆に、五感的でない「何か」の側から五感的世界が生じるとしています。五感的世界はその「何か」に含まれていると。

スピリチュアルな世界にはルールが作れない

精神世界、スピリチュアルは、その「何か」を前提に成立しているカテゴリです。
「何か」は五感的感覚ではとらえられないのだから、この形態、こういう鳴き声、といった五感的感覚には訴えられず、したがって「何か」に属することを言葉で説明しようとすると、五感的感覚をバックグラウンドにした一般的語彙から言葉を選ぶのがむずかしい。

どうしても近似値とか比喩とかいった表現にせざるをえず、ここですでにソースである「何か」とは若干ズレるうえに、聞いたり読んだりしてくれた人が、そこからソースと合致する内容を受けとってくれるとは限らない。
五感的感覚でとらえられない「何か」を扱うために、「ああいう生物を“いぬ”と呼びます」「了解」という直覚的合意が形成されにくく、多数の人の合意による「これこれの生物=いぬ」というルールも成立しにくい

と、その「何か」の一端をとらえた人が、その人なりの基準で当てた言葉に対しては、誰も疑義を呈することができません
「これこれの生物=いぬ」というような、はっきりしたルールを作れない以上、「私のチャネリングではこうだった」「私が体外離脱して見てきたところこうなっていた」と言われたら、誰も突っ込めません。一方、「私のチャネリングではそうじゃない」という真逆の説に対しても突っ込めない

前世紀末、バシャール経由で精神世界チックな情報に接近しはじめた私は、
見えない世界の見えかたはおおむね全員一致していて、全員一致の発達段階みたいなものがあり、いずれ時機が来れば、「見た?」「見た」「きみも?」「うん、見たよ」みたいな形でみんなに感知され、政府の公認発表とかNASAの情報公開とかがあり、ヤフーニュースにも載り、みたいな能天気な未来図を「そうなってもならなくてもどっちでもいいや」という醒めたスタンスで描いてました。

しかし今世紀になってみると全然そういう流れにはなっていかなくて、
次元の数とかチャクラの数とかエーテリックDNAの本数とか、人によって言ってることがまちまちだし、宇宙人とかアセンデッドマスターとかのentityもそれぞれ言ってることが違うし、引き寄せだ、オポノポノだ、非二元だとか、いろんな情報が錯綜し、ヒーリングのやりかたもいろいろあって、合流して大きな流れができるどころか、どんどん多様化、坩堝化している感じです。

これが漫画やアニメや小説などのフィクションの分野で起きてることなら、そういう時代なんだろうな、ってだけの話で、別にどうってことありませんが、精神世界とかスピリチュアルって、願いごとが叶ったり病気が治ったりといった実用的側面もあるノンフィクションなので、意外というか、びっくりボーゼンというか。

そんな中、自分もチャネリングが始まってしまい、それから何年も「なんだこれ、インチキくさいなー」って引いてましたし、自分の降ろしてくるネタが、定説や著名な先生の説と符合しないことに困惑してもいました。
スピ系のサイトやブログなんかもいっぱいあって、「こんなに情報があふれてるのに、わざわざセルフチャネリなんかする意味あるのか?」とも思ったし。

ゼロポイントフィールドによって謎が解けた

しかし、自分の中でゼロポイントフィールドのアクティベートが起きたとき、「これでいいんだ」ということがわかりました。
五感的感覚でとらえられない「何か」どころか、五感的感覚さえも、同じ制服でそろえたみたいな一律な表現にはならない、そういう現れかたはしないのです。

「何か」は、その人の宇宙の「何か」であり、宇宙がその人という当事者の視点で観察され、かつ、創造される以上、「何か」の現れかたや表現のしかたが視点によって異なっていても、おかしくはありません。
「何か」に踏み込むときには、大多数の合意から形成されるルールに則した、一定の証明手続きとか経験則とかによって、誰にとっても妥当な情報を選び出すというサイエンティフィックなアプローチは通用しないのです。

「何か」を提示されたら「何か」で応える、というのが理想なんでしょうけど、とりあえず、記事とか動画とかライブトークなどで「何か」情報に接した場合、自分の「何か」に響くかどうかで、自分にとっての妥当性を判断するしかないといえます。

「自分のチャネリングとか直感とか霊感とかがインチキじゃないか?」という疑いが湧いたら「じゃ、インチキじゃないものって何よ?」反転した問いを投げてみると、真偽問題がひとつ上の次元で統合されて、その先に進めます。

ところで、「言葉」と「それが指し示す物事」との間には何の必然性もないのだけど、大勢の人の合意によってその対応関係が決まり、ルールになるのでした。
大勢の人というのは自分の宇宙に現れている像だし、自分の宇宙には、五感的感覚であれ、それを超える「何か」の感覚であれ、自分の感覚しかありません。

なのに、その自分の中でこんなことが起きています。

「世界」という箱の中に自分も含めて人がいっぱいいて、
その人たちの五感的感覚はだいたい同じで、
だから五感的感覚を手がかりに、
「象徴(言葉)」と「意味」の関係についての合意が成り立ち、
合意されたルールに沿って
象徴を使ったコミュニケーションが行われる、
ということが起こっているかのように見える。
それは、自分が五感的感覚なり、「何か」の感覚なり、
何らかの感覚を感じて、
感じるとともに出現させているのではなく、
先に世界という箱があって、そこに、
自分もほかの大勢の人も投げ込まれている、
ととらえているからです──

つまり、自分があるから世界がある」ではなく「世界があるから自分がある」ととらえることにより、自分と世界の関係が転倒しているからです。

自分と世界の関係がひっくり返っていると、よろず物事が複雑にややこしくなり、そこから元に戻ること(象徴的ポールシフト)についての説明もややこしくなります。
本当はすごく単純なことなんですけど。

このことについては、また別の機会に書けたらいいな、と思います。

 

みけ
チャネリング&瞑想愛好家。在地球アルクトゥルス人。既著は2016年11月に出版された、リトリーバル(魂の覚醒を手助けすること)を主題とするスピリチュアル小説『トランジット』(筆名:田辺ケンジュ/文芸社)。
http://solopub.blog103.fc2.com/

 

電子書籍(無料)『ようこそ☆ゼロポントフィールドへ』
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